巻向
奈良県桜井市穴師を中心とする一帯。垂仁天皇の「纏向珠城宮」、景行天皇の 「纏向日代宮」があったと伝えられる地。三輪山北部から北東部の巻向川・痛 足(穴師)川・巻向山・弓月ヶ岳など、巻向の山川をよんだ歌は、万葉集に十数首みられ、ほとんどが柿本朝臣人麻呂歌集が出典となる歌。その多くが人麻 呂の自作と考えられており、人麻呂が巻向の地に関わりの深い境遇だったと想 像される。箸墓古墳を含む纏向遺跡は、三輪山の北西麓一帯に広がる弥生時代 末期から古墳時代前期の遺跡群で、竪穴住居は少なく、掘立柱建物跡や排水施 設遺構、水路、各地から移入された土器などが検出されており、邪馬台国畿内 説の最有力候補地。
三輪山の東北につづく山(高さ、576m)である。 現巻向山と纏向川の小渓を隔てた北西の穴師山も含めて巻向山といったものであろう。
三輪山の東北に連なる、巻向山の最高峰(576m)。
巻向川は、穴師山と巻向山・三輪山との間を西流して、末は初瀬川に入る川。 「穴師川」はその穴師辺りでの称である。
「三輪の檜原」につづいて、巻向周辺にひろがっていた檜原。
桜井市穴師東方の山(高さ、409m)で、竜王山の南裾の隆起部をなし、 いま、穴師山といわれる。
巻向山
子らが手を 巻向山は 常にあれど 過ぎにし人に 行き巻かめやも
(7・一二六八)
巻向の 山辺とよみて 行く水の 水沫のごとし 世の人我等は
(7・一二六九)
右の二首、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。
子らが手を 巻向山に 春されば 木の葉しのぎて 霞たなびく
(10・一八一五)
山を詠む(三首のうちの一首)
三諸の その山並に 児らが手を 巻向山は 継ぎの宜しも
(7・一〇九三)
右の三首、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。
黄葉を詠む
妹が袖 巻来の山の 朝露に にほふ黄葉の 散らまく惜しも
(10・二一八七)
(傍線部「巻来の山」を「巻向山」とする説あり)
あしひきの 山かも高き 巻向の 崖の小松に み雪降りくる
(10・二三一三)
右柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ
弓月が嶽
雲を詠む
痛足川 川波立ちぬ 巻向の 弓月が岳に 雲居立てるらし
(7・一〇八七)
あしひきの 山川の瀬の 鳴るなへに 弓月が岳に 雲立ち渡る
(7・一〇八八)
右の二首、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。
玉かぎる 夕さり来れば 猟人の 弓月が岳に 霞たなびく
(10・一八一六)
巻向の川・痛足川
雲を詠む(三首のうちの一首)
痛足川 川波立ちぬ 巻向の 弓月が岳に 雲居立てるらし
(7・一〇八七)
川を詠む(十六首のうちの二首)
巻向の 痛足の川ゆ 行く水の 絶ゆることなく またかへり見む
(7・一一〇〇)
ぬばたまの 夜さり来れば 巻向の 川音高しも あらしかも疾き
(7・一一〇一)
右の二首、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。
紀女郎が怨恨の歌三首 鹿人大夫の女、名を小鹿といふ。安貴王の妻なり
世間の 女にしあらば 我が渡る 痛背の川を 渡りかねめや
(4・六四三)
巻向の檜原
山を詠む(七首のうちの一首)
鳴る神の 音のみ聞きし 巻向の 檜原の山を 今日見つるかも
(7・一〇九二)
巻向の 檜原に立てる 春霞 おほにし思はば なづみ来めやも
(10・一八一三)
巻向の 檜原もいまだ 雲居ねば 小松が末ゆ 沫雪流る
(10・二三一四)
痛足の山
問答(十三組のうちの一組)
ひさかたの 雨の降る日を 我が門に 蓑笠着ずて 来る人や誰
(12・三一二五)
巻向の 痛足の山に 雲居つつ 雨は降れども 濡れつつそ来し
(12・三一二六)
右の二首