泊瀬

泊瀬(はつせ)

初瀬川の上流、初瀬谷付近をハツセ、あるいはハセ(長谷)と呼んだ。この 地は奈良盆地と東国を結ぶ水陸交通の要地であり、雄略天皇の「泊瀬朝倉宮」、 武烈天皇の「泊瀬列城宮」、欽明天皇の行宮である「泊瀬柴籬宮」が営まれた。 万葉集や記紀歌謡ではハツセに枕詞「こもりくの」を冠せられる場合があるが、 山に囲まれた隠れた処、神霊のこもる処の意で、山ふところに覆われた地形の みならず、外界から遮断された神の支配する聖なる空間をも意味したと考えら れている。ハツセの語意については、一般的には船の「泊つる瀬」地とする考 えが有力であるが、他にも「瀬が果つる」地の意、あるいはこの地が飛鳥時代 葬送の地であったことから、人の身の「果つ瀬」と意識されたらしいとの考え も一概に否定できない。また東西に長い峡谷状の地形であることから「長谷」とも書いた大和から伊賀、伊勢に行くいわゆる伊勢街道に沿った地で、古くから交通の要地であった。

 

泊瀬山(はつせやま)

泊瀬山は初瀬周辺の山々を広くさしていう。長谷寺西北の初瀬()山(高さ、548m)のみを指すものではない。泊瀬()が古くから葬送の地であったらしく、泊瀬()山を歌う歌には挽歌が多い。

 

泊瀬(はつせ)

泊瀬()川は、貝ヶ平(かいがひら)山に源を発し、桜井市上之郷(かみのごう)を通って初瀬()の地に流れ込み、吉隠(よなばり)から流れ下る小流と合して三輪()山の南を西流する川である。三輪()山を過ぎたあたりから流れを北西に変え、その他の流れと合流し、大和川となって河内へと流れ出る。

 

泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)

泊瀬朝倉宮はつせあさくらのみやは雄略天皇二十三年間の皇居。所在地は、『帝王編年記』に「大和国城上郡磐坂いわさか谷也」とあり、 『大和志』に「黒崎くろさき岩坂いわさか二村間ニ在リ」とあることから、 桜井市上岩坂いわさか磐坂いわさか谷説、同市黒崎くろさきの天の森説が古くから存在した。 また黒崎くろさき白山(しろやま)神社とする説もあったが、同市脇本わきもと遺跡の発掘調査から、今日では脇本わきもとの地と推定されている。

 


()()()()()()()()

泊瀬(はつせ)

こもりくの 泊瀬はつせの国に さよばひに 我が来れば たな曇り 雪は降り さ曇り 雨は降り 野つ鳥 きぎしはとよむ  家つ鳥 かけも鳴く さ夜は明け この夜は明けぬ 入りてかつ寝む この戸開かせ

(13・三三一〇)

 こもりくの 泊瀬はつせ小国をぐにに 妻しあれば 石は踏めども なほし来にけり

(13・三三一一)

 こもりくの 泊瀬はつせ小国に よばひせす 我が天皇よ 奥床に 母はねたり 外床とどこに 父はねたり 起き立たば 母知りぬべし  出でて行かば 父知りぬべし ぬばたまの 夜は明け行きぬ ここだくも 思ふごとならぬ  こもり妻かも

(13・三三一二)

 川の瀬の 石踏み渡り ぬばたまの 黒馬くろまの来る夜は 常にあらぬかも

(13・三三一三)

 右四首

長谷の 斎槻ゆつきが下に 我が隠せる妻 あかねさし 照れる月夜に 人見てむかも 一に云ふ人見つらむか

 (11・二三五三)

 同じく石田王のみまかりし時に、山前王やまくまのおほきみ哀傷かなびて作る歌

つのさはふ 磐余(いはれ)の道を 朝去らず 行きけむ人の 思ひつつ 通ひけまくは ほととぎす 鳴く五月(さつき)には  あやめ草  花橘を 玉に()き 一に云ふ 貫き交へ (かづら)にせむと 九月(ながつき)の しぐれの時は  もみち葉を 折りかざさむと ()ふ葛の いや遠長(とほなが)く 一に云ふ 葛の根の いや遠長に  万代(よろづよ)に 絶えじと思ひて 一に云ふ 大舟の 思ひ頼みて 通ひけむ  君をば明日(あす)ゆ 一に云ふ 君を明日ゆは  よそにかも見む

(3・四二三)

 右の一首、あるいは云はく、柿本人朝臣麻呂かきのもとのあそみひとまろが作なり、といふ。

或本反歌二首

こもりくの 泊瀬はつせ娘子をとめが 手に巻ける 玉は乱れて ありといはずやも

(3・四二四)

川風の 寒き泊瀬はつせを 嘆きつつ 君があるくに 似る人も逢へや

(3・四二五)

 右の二首、或は云はく、紀皇女きのひめみこの薨ぜし後に、山前王やまくまのおほきみ、石田王に代はりて作る、といふ。

 

問答(四組のうちの一組)

(あか)(こま)が 足掻(あが)き速けば 雲居(くもゐ)にも (かく)り行かむぞ 袖まけ我妹(わぎも)

 (11・二五一〇)

 こもりくの とよ泊瀬はつせ道は 常滑とこなめの かしこき道そ 恋ふらくはゆめ

(11・二五一一)

 味酒うまざけの 三諸みもろの山に 立つ月の し君が 馬の音そする

 (11・二五一二)

 右の三首

 

泊瀬(はつせ)風 かく吹く夕は いつまでか (ころも)片敷(かたし)き 我がひとり寝む

(10・二二六一)

 養老七年癸亥の夏五月、吉野の離宮にいでます時に、笠朝臣金村かさのあそみかなむらが作る歌(或本反歌三首のうち一首)

泊瀬はつせ女が 造る木綿花ゆふばな み吉野の 滝の水沫みなわに 咲きにけらずや

(6・九一二)

 

 

泊瀬(はつせ)

土形娘子ひぢかたのをとめ泊瀬はつせの山に火葬やきはぶりし時に、 柿本人朝臣麻呂かきのもとのあそみひとまろが作る歌一首

こもりくの 泊瀬はつせの山の 山のまに いさよふ雲は いもにかもあらむ

 (3・四二八)

 物に寄せて思ひを発す

こもりくの 泊瀬はつせの山に 照る月は 満ち欠けしけり 人の常なき

 (7・一二七〇)

 春日蔵首老かすがのくらのおびとおゆの歌一首

つのさはふ 磐余いはれも過ぎず 泊瀬はつせ山 いつかも越えむ 夜はふけにつつ

(3・二八二)

石田王のみまかりし時に、丹生王にふのおほきみの作る歌一首

なゆ竹の とをよる皇子みこ さにつらふ 我が大君おほきみは こもりくの 泊瀬はつせの山に 神さびに ゆつきいますと 玉梓たまづさの 人そ言ひつる  逆言およづれか 我が聞きつる 狂言たはごとか 我が聞きつるも 天地あめつちに 悔しきことの 世間の 悔しきことは あまぐもの そくへのきはみ  天地あめつちの 至れるまでに 杖つきも つかずも行きて ゆう問ひ 石占いしうらもちて 我がやどに みもろを立てて 枕辺まくらべに  斎瓮いはいへゑ たかだまを 間なく貫き垂れ 木綿ゆふだすき かひなに掛けて あめなる ささらの小野の 七節ななふすげ 手に取り持ちて  ひさかたの あめの川原に 出で立ちて みそぎてましを 高山の いはほの上に いませつるかも

(3・四二〇)

 挽歌(十三首のうちの二首)

こもりくの 泊瀬はつせの山に 霞立ち たなびく雲は いもにかもあらむ

 (7・一四〇七)

 逆言およづれか 狂言たはごととかも こもりくの 泊瀬はつせの山に いほりせりといふ

(7・一四〇八)

 大伴坂上郎女おほともさかのうへのいらつめ、竹田の庄にして作る歌(二首のうち一首)

こもりくの 泊瀬はつせの山は 色付きぬ しぐれの雨は 降りにけらしも

 (8・一五九三)

 右、天平十一年己卯の秋九月に作る。

 

ことしあらば 小泊瀬はつせ山の いはにも こもらば共に な思ひそ我が

)

 (16・三八〇六)

 右、伝へて云はく、時に女子をみなあり。父母に知らせず、ひそか壮士をとこに接る。 壮士をとこ、その親の呵嘖のらはむことを悚惕おそりて、(やくや)猶予ためらふ意あり。 これによりて、娘子この歌を裁作つくりて、その夫に贈り与ふ、といふ。

 

 

泊瀬(はつせ)

河を詠む(十六首のうちの二首)

泊瀬(はつせ)川 白木綿花(ゆふばな)に 落ち(たぎ)つ 瀬をさやけみと 見に()し我を

(7・一一〇七)

 泊瀬はつせ川 流るる水脈みをの 瀬を早み ゐで越す波の 音のきよけく

(7・一一〇八)

 泊瀬はつせ川 早み早瀬を むすび上げて かずやいもと 問ひし君はも

 (11・二七〇六)

 或本、藤原京より宮にうつる時の歌

大君おほきみの 命恐みことかしこみ にきびにし 家を置き こもりくの 泊瀬はつせの川に 舟浮けて 我が行く川の かはくまの 八十やそくま落ちず 万度よろづたび かへり見しつつ  玉桙たまほこの 道行き暮らし あをによし 奈良の都の 佐保さほ川に いき至りて 我がたる 衣の上ゆ 朝月夜 さやかに見れば  たへのほに  夜の霜降り 岩床いはどこと 川の水凝みずこり 寒き夜を やすむことなく 通ひつつ 作れる家に 千代までに いませ大君おほきみよ 我も通はむ

(1・七九)

 反歌

あをによし 奈良の家には 万代よろづよに 我も通はむ 忘ると思ふな

(1・八〇)

 右の歌は、作主いまつまびらかならず。

 

同じ鹿人(きのあそ鹿人かひと)の、泊瀬はつせ川の辺に至りて作る歌一首

岩走いはばしり たぎち流るる 泊瀬はつせ川 絶ゆることなく またも来て見む

 (6・九九一)

 河に寄する(六首のうちの一首)

泊瀬はつせ川 流る水沫みなわの 絶えばこそ 我が思ふ心 げじと思はめ

 (7・一三八二)

 大神おほみわの大夫まへつぎみ長門ながとのかみに任ぜらるる時に、三輪みわ川の辺に集ひて宴する歌二首

三諸みもろの 神のばせる 泊瀬はつせ川 水脈し絶えずは 我忘れめや

 (9・一七七〇)

(おく)れ居て 我はや恋ひむ 春霞 たなびく山を 君が越え去なば

 (9・一七七一)

右の二首、古集の中に出でたり

 

舎人(とねりの)皇子(みこ)(たてまつる)る歌(二首のうちの一首)

泊瀬はつせ川 夕渡り来て 我妹わぎも()が 家の金門かなとに 近付きにけり

 (9・一七七五)

 右の三首、柿本人朝臣麻呂かきのもとのあそみひとまろが歌集に出でたり。

(あま)(くも)の 影さへ見ゆる こもりくの 泊瀬(はつせ)の川は 浦なみか 舟の寄り来ぬ 磯なみか 海人(あま)の釣せぬ  よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 磯はなくとも 沖つ波 (しの)()()() 海人(あま)の釣舟

 (13・三二二五)

さざれ波 浮きて流るる 泊瀬はつせ川 寄るべき磯の なきがさぶしさ

(13・三二二六)

 右二首

 

こもりくの 泊瀬はつせの川の 上つ瀬に い杭を打ち 下つ瀬に ま杭を打ち い杭には 鏡を掛け ま杭には ま玉を掛け ま玉なす 我が思ふいもも  鏡なす 我が思ふいもも ありと言はばこそ 国にも 家にも行かめ 誰がゆゑか行かむ

 (13・三二六三)

 古事記にけみすにいはく、くだりりの歌はなしの軽太子かるのみこの自ら死にし時に作る所なりと。

反歌

(とし)(わた)る までにも人は ありといふを いつの間にそも 我が恋ひにける

 (13・三二六四)

 或書の反歌に曰く

世間よのなかを しと思ひて いへせし 我や何にか かへりてならむ

(13・三二六五)

 右三首

 

見渡(みわた)しに (いも)らは立たし この方に 我は立ちて 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 安けなくに さ()()りの 小舟(をぶね)もがも 玉巻きの 小梶(をかぢ)もがも  漕ぎ渡りつつも 語らふ妻を

(13・三二九九)

或本の歌の頭句に云はく「こもりくの 泊瀬(はつせ)の川の 彼方(をちかた)に (いも)らは立たし この方に 我は立ちて」といふ。

右の一首

 

こもりくの 泊瀬(はつせ)の川の 上つ瀬に ()を八つ(かづ)け 下つ瀬に ()を八つ(かづ)け 上つ瀬の 鮎を食はしめ 下つ瀬の 鮎を食はしめ くはし(いも)に  鮎を惜しみ くはし(いも)に 鮎を惜しみ 投ぐるさの 遠ざかり居て 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 安けなくに 衣こそば それ()れぬれば  ()ぎつつも またも逢ふといへ 玉こそば ()の絶えぬれば くくりつつ またも逢ふといへ またも逢はぬものは 妻にしありけり

 (13・三三三〇)

こもりくの 泊瀬(はつせ)の山 青旗(あをはた)の 忍坂(おさか)の山は 走り出の (よろ)しき山の 出で立ちの くはしき山ぞ あたらしき 山の 荒れまく惜しも

 (13・三三三一)

高山と 海とこそば 山ながら かくも(うつ)しく 海ながら しか(まこと)ならめ 人は花ものそ うつせみ世人(よひと)

 (13・三三三二)

 右の三首

 

山を詠む(七首のうちの一首)

三諸(みもろ)つく 三輪(みわ)山見れば こもりくの 泊瀬(はつせ)()(ばら) 思ほゆるかも

 (7・一〇九五)

 

 

泊瀬(はつせ)朝倉宮(あさくらのみや)

泊瀬はつせ朝倉宮あさくらのみやに天下治めたまひし天皇の代

()もよ み()持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に ()()ます児 家()らせ 名()らさね そらみつ 大和の国は  押しなべて 我こそ()れ しきなべて 我こそ()れ 我こそば ()らめ 家をも名をも

 (1・一)

泊瀬(はつせ)朝倉宮(あさくらのみや)に天下治めたまふ大泊瀬(はつせ)(わか)(たけるの)天皇(すめらみこと)の御製歌一首

夕されば 小倉(をぐら)の山に 伏す鹿し 今夜は鳴かず ()ねにけらしも

 (9・一六六四)

或本に云はく、岡本(おかもとの)天皇(すめらみこと)の御製なりといふ。正指を(つまび)らかにせず。()りて(かさ)()せたり。