磐余

磐余いはれ

「天ノ香久山の東北麓にかつて存在した磐余池付近から西方に及ぶ地域。大和の平野部から宇陀の山間部への入り口に位置する。」とは日本地名大辞典(角川出版。以下、地名辞典と略す)の説明。他の多くの説明によれば、奈良県桜井市南西部の池の内、橋本,阿倍から橿原市東池尻町を含む同市南東部にかけての地名とするのが一般的。どうも地名辞書の説明は西に広がりすぎるように思うが、橿原市中曽司町に磐余の名を冠した神社(磐余神社)があることを考慮してのものなのだろうか。

香具山の麓より磐余を見る
香具山の麓より磐余を見る

地名辞典の考えを一概に否定するものではないが、私は天の香具山の北東麓あたりをその西端とし、東端は、一般的に考えられているのよりも、もう少し東に範囲を広げて桜井市谷のあたりまでを考えた方が良さそうな気がする。すなわちその東端を寺川(倉橋川)と考え、そこから西を跡見とみと考えるのである。。北限を横大路の前身(和田萃氏「磐余の諸宮とその時代」)とし、そこから多武峰にかけての緩やかな傾斜地を磐余と呼んだのだと思う。

万葉集に「つのさはふ 磐余も過ぎず 泊瀬山 いつかも越えむ 夜はふけにつつ(巻三/282)」とあることから「磐余」は飛鳥・藤原の地から泊瀬へ抜ける交通上の要所であったと考えられるが、それにもまして崇神天皇に始まるヤマト王権の中核地が、行きつ戻りつを繰り返しながら三輪・巻向の地から明日香に移動する過程において、幾代かの天皇がこの地に都を構えたことも興味が引かれる。

その嚆矢をなすのが磐余椎桜宮わかざくらのみやである。神功皇后が誉田別皇子ほむたわけのみこ(後の応神天皇)を立太子させたのがこの宮である(後に履中天皇も宮都とする)。現在の桜井市池之内にある稚桜神社がその跡地と考えられている(桜井市谷にも同名の神社があり、当地をその跡地と考える向きもある)。

続いて清寧天皇の磐余甕栗宮みかくりのみや。これは天の香具山の東麓にある御厨子みずし神社(橿原市東池尻町)の辺りかという。

継体天皇の磐余玉穂宮たまほのみやは桜井市池之内周辺とされているが詳細は未詳。

かつて広陵町の百済付近にあったと考えられていた敏達天皇の百済くだら大井宮(舒明天皇の百済宮も同地か?)も、磐余にあった可能性は高い。日本三代実録に百済川は「大和國十市郡百濟川邊(元慶4年10月20日)」と十市郡を流れていることを示しているが、広陵町百済の地は十市郡ではなく広瀬郡に属していること、この地域にそれに相当する瓦や遺構がまったく見当たらないことなどが根拠となって、この地を上古の時代における百済の地とすることに疑義が挟まれ出したのである。

万葉集には「高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌(巻二/199)」に「・・・百済の原ゆ 神葬り 葬りいまして あさもよし 城上の宮を 常宮と 高く奉りて 神ながら 鎮まりましぬ しかれども 我が大君の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の 宮万代に 過ぎむと思へや・・・」とあるが、この部分をそのまま受け取るとすると、高市皇子の遺体はその葬儀にあって、お住まいになられていた香具山の宮から百済を通って城上の宮に移されたと考えなければならない。同じく万葉集の巻十三/3324(どの皇子とは特定できないが藤原京にお住まいになられていた1人の皇子の挽歌と思われる)に「あさもよし 城上の道ゆ つのさはふ 磐余を見つつ 神葬り  葬奉れば」とあることから、城上は磐余が見える範囲に存在しなければならず、その通過地点である百済は磐余に存する可能性が高い

そこで和田萃氏は橿原市高殿町に東百済・百済・西百済の字名が残ること、百済川と呼ばれる小河川のあることを根拠として、香具山北西麓の一体に百済の地を比定し、城上の宮を明日香村木部に求めた(「百済宮再考」※1 『日本古代の儀礼と祭祀・信仰 上』)。

また渡里恒信氏は、城上の宮は寺川・粟原おうばら川の合流点がその旧地だという。周辺に位置する桜井市橋本の青木廃寺・桜井市外山の宗像神社が高市皇子、その息子の長屋王と結びつきが強いことを考えても、またその近辺に木部という小字名が残っていることを考えてもこの説の蓋然性は高い。そして氏はその通過点としての百済の位置を桜井市吉備の吉備池廃寺の周辺がふさわしいのではないかというのだ(「城上宮について -その位置と性格-」※2 『日本歴史』第598号)。1997年に発掘が始まった桜井市吉備の吉備池廃寺は、発掘が進むごとにその巨大さが明らかになってきた。日本書紀舒明天皇11年に「是月、於百濟川側建九重塔」と記された「九重塔」の塔の基壇として考えざるを得ない規模の基壇跡も発見され、ここが勅命によって作られた百済大寺である事が分かってきたのが、この事実は渡里氏の考えを雄弁に支持する。となれば、百済大井宮もこの吉備の近辺にあったものと考えなければならないのではないか。

敏達天皇は後に都を譯語田おさだ幸玉宮さきたまのみやに移すが、ここは吉備池廃寺跡からほんの500mほど北東に位置する桜井市戒重の春日神社がそれだと伝えられている。

最後に用明天皇の「磐余池辺双槻宮いけべふたつきのみや」。その名のとおりこの磐余に存したという磐余池(日本書紀履中天皇2年11月、翌3年冬11月の「磐余市磯池いちしのいけ」を正式名称とする)の辺にあったであろうと推測されるが、2011年、香具山の北東橿原市東池尻町にその池のものと思われる堤跡が発見されるや俄然同地にこの宮があったとする考えが有力になった。ただし後段にも述べるように、磐余池の所在地については異説も存し、確定を見ない。さらに同天皇陵である「磐余池上陵」もこの磐余池の辺にあったと考えられる。

磐余いはれの池

磐余の池推定地
磐余の池推定地

香具山の北東一帯にあった池。 桜井市池之内町・橿原市池尻町の地名は池に因む名であろうとされる。 履中紀2年11月に、磐余の池を作ったと見える。2011年、同地よりその堤跡かと思われる遺構が発見され、この場所が旧来の考え通り、磐余の池の跡地である可能性が強まった。

磐余の池復元図
磐余の池復元図

ただしこの考えには異説がないわけではない。千田稔氏は「古代王権と文芸者の射程ー磐余について」(『日本研究』16集 国際日本文化研究センター)において、磐余の池は上に述べた推定地より東、やや北寄りに1kmほど行った桜井市谷の辺りをその旧地であるとしている。詳しくはそちらによられたいが、下にある大津皇子の挽歌を理解しようと思った場合、この千田稔氏の考えの方が私にはしっくりくる(同様の趣旨を氏もこの御論考の中で述べられている)※3

 


 磐余(いはれ)

春日蔵首老(かすがのくらくびのおゆ)の歌一首

つのさはふ 磐余(いはれ)も過ぎず 泊瀬(はつせ)山 いつかも越えむ 夜はふけにつつ

磐余もまだ通り過ぎていない。この分では、泊瀬の山、あの山はいつ越えることができようか。夜はもう更けてしまったのに。

(三・282)

かけまくも あやに恐し 藤原の 都しみみに 人はしも 満ちてあれども 君はしも 多くいませど 行き向かふ 年の緒長く  仕へ来し 君が御門(みかど)を 天のごと 仰ぎて見つつ 恐けど 思ひ頼みて いつしかも 日足(ひた)らしまして 望月(もちづき)の たたはしけむと  我が思ふ 皇子の(みこと)は 春されば 殖槻(うゑつき)の上の (とほ)つ人 松の下道(したぢ)ゆ 登らして 国見遊ばし九月(ながつき)の しぐれの秋は  大殿(おほとの)の みぎりしみみに 露負ひて なびける萩を 玉だすき かけて(しの)はし み雪降る 冬の(みかど)は  挿し柳 根張り(あづさ)を  (おほ)御手(みて)に 取らしたまひて 遊ばしし 我が大君(おほきみ)を (けぶり)立つ 春の日暮らし まそ鏡見れども飽かねば 万代(よろづよ)に かくしもがもと  大舟(おほぶね)の (たの)める時に 泣く我 目かも迷へる 大殿(おほとの)を ()()け見れば 白たへに 飾り奉りて うちひさす 宮の舎人(とねり)も一に云ふ は  たへのほに 麻衣(あさごろも)着れば 夢かも (うつつ)かもと 曇り夜の (まど)へる間に あさもよし 城上(きのへ)の道ゆ つのさはふ 磐余(いはれ)を見つつ 神葬(かみはふ)り  (はふ)(まつ)れば 行く道の たづきを知らに 思へども (しるし)をなみ 嘆けども 奥かをなみ (おほ)御袖(みそで) 行き触れし松を (こと)()はぬ  木にはありとも あらたまの 立つ月ごとに 天の原 ()()け見つつ 玉だすき かけて(しの)はな (かしこ)くありとも

申し上げるのもまことに畏れ多い。藤原の都いっぱいに人は溢れているけれども、皇子は数多くいらっしゃるけれども、めぐり来る年月長く仕えて来た君の御門を、天を仰ぐように振り仰いで、畏れながら頼りに思って、一日も早く成長なさって、満月のように立派になられるようにと私が思う皇子の尊は、春になると植槻のほとりの、(遠つ人)松の下の道から、岡にお登りになって国見をなさり、九月の時雨の降る秋には、大殿の石畳のまわりいっぱいに、置く露の重さになびいている萩を、(玉だすき)心にかけて賞翫され、雪の降る冬の朝は、刺し枝にした柳が根を張るように弦を張った梓弓を、御手にお取りになって遊猟なさった私の大君を、煙のように霞が立つ春の一日をひねもす、(まそ鏡)見ていても飽きないので、万代にこのようでありたいものと、(大船の)心に頼みにしていたその折に、泣く私の目がおかしくなってしまったのか、大殿を振り仰いで見ると、白い布でお飾りして、(うちひさす)宮の舎人も〈一本に「は」と言う〉、まっ白な麻の喪服を着ているのは、これは夢か、現実かと、(曇り夜の)惑っているところに、(あさもよし)城上の道を通って、(つのさはふ)磐余を横に見ながら、神葬(はぶ)りに葬り申し上げるので、道をどう行くのかもわからず、思っても何にもならず、嘆いても行くべき先がないので、君の御袖が触れた松を、ものを言わぬ木ではあるけれども、(あらたまの)新しく立つ月ごとに、天の原を仰ぐように仰ぎ見つつ、(玉だすき)心にかけて君を偲ぼうよ。畏れ多くはあるけれども。

 (十三・3324)

つのさはふ 磐余(いわれ)の山に 白たへに かかれる雲は 大君(おほきみ)にかも

磐余の山に、白い布のようにかかっている雲、あれは亡き皇子なのであろうか。

(十三・3325)

右の二首

 

同じく石田王の(みまか)る時に、山前(やまくまの)(おほきみ)の哀傷して作る歌一首

つのさはふ 磐余(いはれ)の道を (あさ)()らず 行きけむ人の 思ひつつ 通ひけまくは ほととぎす 鳴く五月(さつき)には あやめ草  花橘を 玉に()き 一に云ふ 貫き交へ (かづら)にせむと 九月(ながつき)の しぐれの時は もみち葉を 折りかざさむと  ()ふ葛の いや(とほ)(なが)く 一に云ふ 葛の根の いや遠長に 万代(よろづよ)に 絶えじと思ひて 一に云ふ 大舟の 思ひ頼みて  通ひけむ 君をば明日(あす)ゆ 一に云ふ 君を明日ゆは よそにかも見む

あの磐余の道を毎朝帰って行かれたお方が、道すがらさぞや思ったであろうことは、ほととぎすの鳴く五月には、ともにあやめ草や花橘を玉のように糸に通して髪飾りにしようと、九月の時雨の頃には、ともに黄葉を手折って髪に挿そうと、そして、這う葛のようにますます末長くいついつまでも仲睦まじくしょうと、こう思って通ったことであろう、その君を事もあろうに明日からはこの世ならぬ外の人として見るというのか。

(三・423)

右の一首、あるいは云はく、(かきの)本朝(もとのあそ)()人麻呂(ひとまろ)が作なり、といふ。

 

 磐余(いはれ)の池

大津(おほつの)皇子(みこ)、死を(たまは)りし時に、磐余(いはれ)の池の(つつみ)にして涙を流して作らす歌一首

(もも)(づた)ふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠(くもがく)りなむ

百に伝い行く五十、ああその磐余の池に鳴く鴨、この鴨を見るのも今日を限りとして、私は雲のかなたに去って行くのか。

(三・416)

右、藤原宮の(あけみ)(とり)元年十月


 

※1、※2

いずれも未読。その概要は奈良文化財研究所発行の「学報68 吉備池廃寺発掘調査報告」考察の記述にて知った。詳しくはそちらを参照願いたい。

※3

以前書いたことの焼き直しになるが、大津皇子は謀反発覚後逮捕され死を賜った。おそらくは逮捕後に当時の都である明日香浄御原宮あすかきよみのはらのみやにて厳しい尋問を受けたであろう。そしてその後、自宅である訳語田舎をさだのいへにて死を賜った。問題はそのルートである。訳語田舎は明日香から一旦東へ向かってから、北に大きく方向を変える山田道の途上にある。しかしながら、この度発見された堤跡により作られた池は、香具山やその周辺を丘に遮られて見ることは出来ない。もう一つ考えられるルートとしては明日香浄御原宮から一旦北上して横大路で右折しそのまま東に向かう道筋である・・・が、ここも旧来の推定地からはやや距離があると言わざるをえない。大津皇子は逮捕された翌日にはもう死を賜っているのだが、かなり迅速な処置である。そんな皇子にわざわざ磐余の池に立ち寄るような暇が与えられたとは考えにくいのである。また仮に与えられたとしても、大津皇子がここで磐余の池に立ち寄らなければならなかった理由が見いだしにくい。まさか辞世を詠むためにわざわざ立ち寄ったなどとは考えにくいことである。

ところが千田氏の説くように桜井市谷にこの池があったとすると、磐余のは大津皇子の訳語田舎の程近くにあったことになる。皇子が刑に処せられるその眼前に磐余の池があったのだ。そしてそれは日々皇子が見慣れた光景である。そして、そこに鳴く鴨の声も皇子が毎日のように聞いていた声なのだ。皇子の歌について以前次のように述べたことがある。

「ももつたふ」は「いはれ」の「い(五十)」のかかる枕詞。百という大きな数に伝いゆく数字として「五十イ」の音に注視したのであろうと同時に、百に到るまでの永きの間との意味もそこにはこめられている・・・すなわちその対象たる磐余の池、そしてそこで繰り返されるであろう鴨たちの営みの永続性をも表象しうる言葉として理解することが可能であろう。

もしこの読みにいくばくかの妥当性があるとして、そこで述べた「永続性」という語は、大津皇子が見慣れた光景を詠んだものだと考えたときいっそう確かさが増すように思われる。今日と日常的に聞いてきた鴨の声・・・それはこれからも永遠に続いて行く事を想起させるからだ。そしてその鴨の声を毎日のように聞いてきた皇子は今日を限りに世を去ってしまう。その対比の妙がこの歌では重要な要素になっている。