大伴家持と藤原久須麻呂と

万葉集の巻の四の末尾に、ここ数年常に気にかかっている歌群がある。この国最古の歌集である万葉集を、おそらくは今我々が見る姿に近いものへと仕立て上げた歌人大伴家持と、平城の御代の中期から末期にかけて権勢を誇った恵美押勝こと、藤原仲麻呂の子、藤原久須麻呂との間に交わされた次の7首である。

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大伴宿祢家持報贈藤原朝臣久須麻呂歌三首

春の雨は いやしき降るに 梅の花 いまだ咲かなく いと若みかも

夢のごと 思ほゆるかも はしきやし 君が使の 数多(マネ)く通へば

うら若み 花咲きかたき 梅を植ゑて 人の言繁み 思ひぞ我がする

又家持贈藤原朝臣久須麻呂歌二首

心ぐく 思ほゆるかも 春霞 たなびく時に 言の通へば 

春風の 音にし出なば ありさりて 今ならずとも 君がまにまに

藤原朝臣久須麻呂来報歌二首

奥山の 岩蔭に生ふる 菅の根の ねもころ我れも 相思はざれや

春雨を 待つとにしあらし 我がやどの 若木の梅も いまだふふめり

万葉集巻四・786/792


まず、最初の「大伴宿祢家持報贈藤原朝臣久須麻呂歌三首」についてである。太字表記にした「報贈」とは何らかの働きかけに対して「報(コタ)へ贈」ることを言う。

天平17年あるいは18年(746)の春ごろに交わされたと推定されるこれらの歌の第1首に「梅の花 いまだ咲かなく いと若みかも 」とあるのは当時11、12歳であっただろうと推定される大伴家持の娘。それにしきりに降りかかる「春雨」とは藤原久須麻呂の求婚をさす。まだ自分の娘は若すぎると、父家持は丁重に断りを入れているのだ。続いて2首目においてしかしながら、その求婚に対しては充分に感謝している旨を述べ、その上で3首目において、幼い愛娘への、おそらくは突然に思えるような求婚に戸惑う親の心が歌い、理解を願っている。

しかし、久須麻呂からは、重ねて求婚の意思表示があったのだろう。家持は再び2首を久須麻呂に贈る。「又家持贈藤原朝臣久須麻呂歌二首」である。1首目はこうやって度々久須麻呂より求婚の使いに対して娘はまだ幼いからと断り続けなければならないつらさを歌い、2首目、しかるべき時期にしかるべきお言葉(歌)をいただければきっと意に添えるであろう旨を久須麻呂に告げている。

そして、その父親、家持の思いに応えられぬ久須麻呂ではなかったようだ。「藤原朝臣久須麻呂来報歌二首」がそれだ。「来報(コタ)」ふとは必ずしも実際に久須麻呂が家持の元に訪れたことを意味することとは思えないが、全くその可能性がなかったとは言い切れない。1首目、「菅の根の」はその根の長さから末長き変わらぬ心を示す。即ち家持が、もし待っていただけるのなら・・・と歌いかけてきたことに対しての返答である。そして、2首目、「春雨を 待つとにしあらし 」と歌い、しかるべき時期が来るのを待つとの意思表示がなされる。

かくして大伴宗家家・藤原南家(ただし久須麻呂の父仲麻呂は南家次男)との婚約は成立した。その後、この婚儀が滞りなく相成ったかどうかは推測の域を出ない。巻の十九の4214の「挽歌」と題された歌の左注に「右大伴宿祢家持弔南右大臣家藤原二郎之喪慈母患也」とある、「藤原二郎」を一部でとなえられているように久須麻呂と考えるのならば、上記の歌群においてなされた婚約は履行されたものとみることはできるが、「藤原二郎」を久須麻呂と考えることには異論もあり、確かなこととは言えない。

ただ、両家の婚姻んが成立したかどうかは別のこととして、この時代の娘を持つ父親とその娘を求める男との微妙なやり取りを垣間見せてくれるこの歌群は、その歌の良し悪しをこえてまことに興味深い。

・・・が、この歌群について私が抱いている興味はそこにあるのではない。ならば、私の関心の中心がどこにあるのか・・・

万葉集中を見渡すに、男から女への誘いかけは直接当人にあることが普通である。しかるに冒頭の題詞に「報贈」とることは、今回の求婚がそのような通例には則らなかったことを意味する。「報」とは自分に対してなされた働きかけに対して応ずることを意味し、そのことを重視するならば、ここは女の父親である大伴家持に対して藤原久須麻呂の働きかけがなされたと考えざるを得ない。

久須麻呂の求愛の対象である家持の娘がまだ幼すぎたからそうなったのだと考えればそれまでであるが、だとすれば、そのような幼すぎる家持の娘を久須麻呂はなぜ自らの求婚の対象として選んだのか。そこに藤原氏(仲麻呂)側に政略的な思いがあっただろうことは容易に想像できよう。この時期、仲麻呂は息子久須麻呂を通じて大伴家持と積極的に関係を作ろうとしていたと考えるべきであろう。以下、両者の関係について説明しておこう。

当時、政界のトップに君臨していたのは橘諸兄(モロエ)であった。天平9年(737)天然痘の流行によって藤原四兄弟をはじめとした多くの実力者が世を去り、そのことを契機に大納言に昇進したこの皇親政治家は同10年(737)正三位右大臣に昇進し国政の実権を掌握する。その後。同15年(743))従一位左大臣まで上り詰める。そして、この橘諸兄こそが当の大伴家持の庇護者であった。家持は当代随一の権力者の派閥の構成員であったのだ。一方、藤原仲麻呂は天平9年の天然痘の流行により世を去った藤原武智麻呂の次男。叔母に当たる光明皇后の信任を得、天平13年(741)民部卿着任以降急速に力を伸ばし、橘諸兄の地位を脅かしつつあった。家持にとって、いわば対立する派閥の長であったと言うことが出来る。

大伴家持は最終的には従三位中納言まで昇進するが、それまでの道のりは平坦なものではなかった。天平17年(745)従五位下を賜り昇進の途についた家持は、越中国守在任中の天平勝宝元年(749)に従五位上を賜るが、その後次の位である正五位下に進むまでに21年の歳月を要した。しかもその間その官職は地方と中央をめまぐるしく行き来しており、大伴宗家の長としてはあまりにも恵まれない21年であった。その要因として考えられるのが仲麻呂との関係にあったと言うのが通説である。

上述のごとく仲麻呂は光明皇后を後ろ盾に力を増し、当時最高位にあった橘諸兄と鋭く対立していた。天平勝宝元年(749)には光明皇后のもとに設けられた紫微中台長官と、中衛大将の地位に就いた仲麻呂は政治と軍事の大権を掌握し、左大臣橘諸兄を圧倒し、事実上の最高権力者となる。となれば、彼が次に行うのは対立する勢力の駆逐である。諸兄側の人間である家持がその影響を受けないはずがない。かなりの振幅を持ちながらも家持の昇進のペースが急速にその早さを増してくるのが、天平宝字8年(764)以降になっているのもその証左といえようか。

この間にこの二人の間にあった事件を以下に二つ紹介しておこう。

天平宝字元年(757)橘奈良麻呂の乱。

橘諸兄の子奈良麻呂が仲麻呂の専横に反発して、その排除を目指したものであるが、密告により関係者全員が逮捕される。この乱には家持は荷担することは無かったと言われるが、同族の佐伯・大伴のものが処罰されている。家持の最良の歌友大伴池主もこの欄に加わったとみられ、この後その消息が分からなくなった。この事件の取り調べは熾烈を極めたという。家持にもその嫌疑がかからなかったわけはない。家持がその翌年に因幡の国に左遷されたのは、その余波と考えられている。

天平宝字7年(763)藤原仲麻呂暗殺計画発覚。未遂に終わり家持も逮捕される。首謀者であった藤原良継が罪を一人で被り、罪には問われなかったが翌年薩摩の国守として左遷させられた。

以上、大伴家持と藤原仲麻呂の関係を見てきたが、そこには対立の構図しか見えてこないが・・・そのような状況を踏まえたうえで、この久須麻呂の求婚の意味を考えればどうなるのか・・・

以下想像の幅を広げすぎるようになるかもしれないが、ひとつの可能性を示してみたいと思う。。

上にこの求婚が政略的な意図のもとに行われたものだと述べた。当時久須麻呂の父仲麻呂は参議(議政官)、政界では充分に勢力ある存在であった。しかし上には橘諸兄がいる。皇族出身の諸兄と官僚社会の実現を目指す自分とではあまりに政治的立場が違いすぎる。自らが権力を握り、その理想を実現するためには諸兄を上回る力を手に入れるしかない。そのための方策の一つとして・・・諸兄陣営の官人一人一人を自分の側に組み入れてしまうことがある。これは自らの陣営を増やすだけではなく、相手の陣営を減少させる意味合いも持っている。

そしてその対象として家持はもってこいの人物であった。家持はこの年やっと従五位下を賜ったばかりの少壮政治家ではあったが、なんといっても名門豪族大伴家の長だ。新進貴族である藤原氏としては家持が自分の側にいるといないとでは、その権威にかなりの違いが生じてくる。しかも、大伴家は軍事を以て朝廷につかえてきた家柄である。壬申の大乱も大伴家の活躍がなければその勝敗が変わって来たであろう。家持の父旅人もその軍人としての力量を充分に発揮して隼人の反乱を無事鎮めた・・・・そのような家筋と婚姻関係を結ぶことはそれだけで心強い事であっただろう。

ならば家持はこの求婚をいかに受け止めたのか・・・

夢のごと 思ほゆるかも はしきやし 君が使の 数多(マネ)く通へば(787)

と、この歌群の2首目に歌った心に偽りはなかったであろうと思う。たとえ対立する派閥の長の子どもからとはいえ、わざわざこうやって誘いかけてくれるということは、それだけ自分が評価されているということを示す。自分が諸兄陣営の人間であるとしてもそれは喜ばしい事には違いない。無碍にこの誘いを断るには少々気が引ける。そんな思いがこの歌群最初の3首「大伴宿祢家持報贈藤原朝臣久須麻呂歌三首」からは読み取れる。

かといって、己が敬愛するのは左大臣橘諸兄・・・狭間にあった家持の思いは必ずや揺らいだに違いない。

おそらくは更に繰り返されたに違いない久須麻呂からの働きかけに家持は政治家として、そして何よりも父親として畳みかけるようにその真意をただす。久須麻呂からの返事は実に誠意に溢れた2首であった。歌としてそれを評価するのであればそう高く評価できるものではない。けれどもその2首は家持の投げかけに誠実に答えたものであった。政治家として、父親として、家持は満足したに違いない。

ただ残念ながらこの婚儀が無事調ったものであるかどうか・・・資料はその結果を示してくれてはいない。ただいくつかの事実がひょっとしたら家持の娘が藤原の家に嫁いだであろうことを髣髴とさせる・・・そんな事実がある。

一つは前回の記事に示した巻の十九の4214の「挽歌」と題された歌の左注の「右大伴宿祢家持弔南右大臣家藤原二郎之喪慈母患也」の「」の文字。ここにある「藤原二郎」が一部で言われているように久須麻呂のことであるならば、間違いなくこれらの歌群でのやり取りの結果この婚儀が成立したことを意味する。けれどもこの「藤原二郎」が誰であるかは異説もあって確証とは言い難い。

後は・・・少々遠回しな証左となるが、上に述べた「橘奈良麻呂の乱」「仲麻呂暗殺計画」の二つの事件である。いずれの事件の際にも、その直後家持は因幡・薩摩と遠国に左遷されている。しかしながら、事の重大さから見ればそれはあまりにも軽い対応であったように思われる。いずれも事件もが仲麻呂自身を除こうとした事件だ。橘奈良麻呂の乱にはかかわっていなかったとはされているが、その企ては当然家持に回ってきていたはずだ。敵に回せば厄介な大伴の家の長である。これ幸いと罪をかぶせなきものにすることも可能であったはずだ。暗殺計画に至ってはそのメンバーであったのだから、いくら藤原良継が一身にその罪を背負おうとしても仲麻呂側の追及のしようによっては家持をも罪に問うことは可能であったと思う。

そこに・・・私はこれらの歌群の持つ重要性を感じているのである。

すなわち、天平17年或いは18年春、件の歌のやりとりを通じ、大伴宗家と藤原南家との婚約は成立した。それから数年の後のしかるべき頃、娘は藤原の家に嫁ぐことになる。両家は久須麻呂と家持の娘という二人の若者によって結ばれることになる。この関係が上記の二つの事件において家持に対する処置が甘くなる要因になったのではないか・・・

公において対立する派閥の構成員である家持を仲麻呂は冷遇はする。しかしながら家持は我が子である久須麻呂の義理の父にも当たる。その義理の父が罪人としてとらえられ処罰されると言うことはすなわち、その義理の息子(仲麻呂にとっては実子)久須麻呂の履歴に傷をつけることでもある。振り下ろした刃が自らに向いてしまうのだ。しかしながら事件にかかわったとも考えられる家持をそのまま野放しにするわけにも行かない。ここは体よく地方の国守として都から追い払ってしまうに限る・・・というのがことの実相ではあるまいか。国守の地位を保証するのであるからそれは罪を罰したことにはならない。

家持がその娘と久須麻呂との婚儀に踏み切ったのはおそらくは久須麻呂からの誠意あふれる2首があったからに間違いはない。立場上武人でもあり政治家でもある家持は、しかしより文学の人であった。その善し悪しはともかくとして歌を通じその真心が示されれば、彼にこの婚姻を否む理由はない。仮に背後に自らの、或いは一族の保身を思っての思慮があったにしても家持の心中にあったのは久須麻呂から示された誠意が主なものだったであろう。

若き日のほんの7首の歌のやりとりが家持を、そして大伴の家を守ったのである。家持は「歌の力」を再認識せざるを得なかった・・・