大津皇子と大伯皇女

大津皇子は天武天皇と太田皇女の間に生まれた皇子。太田皇女は天智天皇の皇女で、後に持統天皇となる鵜野讃良(ウノササラ)皇女の姉である。二人はいずれも天武の妻となり、皇子をもうけた。鵜野讃良皇女のそれの名は草壁皇子である。本来ならば姉である太田皇女が天武即位の後皇后となるはずではあったが、大伯(オオク)皇女・大津皇子を生んだ後、若くして世を去った。したがって、皇后の地位には鵜野野讃良皇女がつくことになり、この時点において次の皇位に最も近い存在は草壁皇子となった。

しかしながら、大津皇子の才覚たるや、父、天武の信望を厚く受けるものであった。その人となりについては懐風藻に詳しい。

状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性すこぶる放蕩にして、法度に拘わらず、節を降して士を礼す。これによりて人多く付託す

大津皇子がかくもまれなる器であったが故に悲劇を招くこととなった。「人多く付託す」とあるように、当時の政界において皇太子たる草壁皇子よりも、この大津皇子を次期の天皇にふさわしいと考える勢力が少なからぬ数、存在していたのであろう。故にそれは皇太子の母?野讃良皇女には極めて目障りな存在であったに違いない。ことがあったのは、両皇子の父、天武天皇の崩御の直後である。朱鳥元(686)年九月九日の天皇の崩御の二日後、その葬儀は始まる。そしてその悲しみのさなか、日本書紀は唐突に語る。

この時に当たりて、大津皇子、皇太子を謀反(カタムケ)んとす。

そして十月二日、皇子は逮捕されその三日後死を賜る。この歌はその時のものだ。そしてその妻、皇女山辺は泣き叫び素足にて走り出し、皇子の後を追ったという。

この事件に関して日本書紀の筆者は言葉少なである。その他数名の連座犯がいたが、死を賜る者はなく、いずれも軽い刑であった。この辺り、皇后鵜野讚良側に何らかのやましさがあるのだと推定し、この事件が陰謀であったとする考えの根拠にもなっている。否定できない考えである。

が、私は、大津に謀反の意志はあったと考えている。ことを冷静に考えたとき、大津は自分が非常に危険な立場にあったことは重々知っていたはずだ。それは、天智亡き後の、父天武と同じである。その父は吉野の地において「なんぞ黙して身を滅ぼさんや」といって決起したのだから・・・そして、この葬儀の最中、姉大来皇女のもとへの伊勢下向は皇子のその決意を物語る。

大津皇子は世を去った。686年10月3日のことであった。それは父天武天皇の死から、3週間が過ぎたばかりであった。謀反の罪であったとは言え、大津は多くの人々の信頼を集めていた。彼の死を惜しんだ人の数は少なくはないはずだ。けれども、そういった人々の大津への追慕の念は鵜野讚良(ウノササラ)皇后への気兼ねもあって公には出来ない。追慕どころか正史の日本書紀でさえ、極めて冷淡に事実のみを記述しているだけである。であるから、こういった人々の大津への思いは、おそらくは物語のような形で密かに語り継がれたのではないかと考える。

その断片が万葉集には残っている。けして大津皇子関連の歌が集中的に配置され、物語だとわかるような配置ではなく、数首づつにわけ、それが物語であるとは気づかれないように万葉集の編者は心がけている。万葉集は、かくも敗者に暖かい眼差しを向ける歌集であった。読者はその編者の思いやりをくみ取らねばならない。 この悲劇の皇子の物語は、まず恋歌から始まる。

あしひきの 山のしづくに 妹(イモ)待つと 我立ち濡れぬ 山のしづくに

あなたをこうやって夜通し待っていたら、すっかり山の雫で濡れてしまいました

大津皇子万葉集巻二・107

我(ア)を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを

私のことを待っていらっしゃって、あなたが濡れてしまったという、その山の雫にわたしはなりたかったわ・・・

石川郎女・万葉集巻二・108

率直に思いのたけを相手女性に訴えるその姿が、評伝通りの大津らしくて好感が持てる。対して、石川郎女は、万葉集中、他にも登場し何人かの男と恋歌を交わしているのが窺えるが、詳しくはわからない。おそらく、恋の海千山千であっただろう。大津とこの歌を交わしていた頃、彼女はどれだけの経験を積んでいたかはわからない。けれども、女に向かって不平混じりに思いの丈をぶつける大津に対して、郎女は軽くいなし返している。あきらかに、大津の負けである。

石川郎女は、大津の政治上のライバルでもある草壁の想い人でもあった。当時すでに皇太子であったかどうかはこの歌の年次がはっきりしない以上わからないが、皇太子の想い人に手を出したとすれば、これは相当なスキャンダルである。ご想像願いたい。皇太子の恋人に、皇太子の弟が手を出した・・・どうであろう。大騒ぎとなるはずである。 そして、ことは露見した。当代随一の占い師「津守」の占いによって二人の恋は白日の下に曝されてしまったのである。当然人々は好奇の目で見たであろう(今の世だったらその関係の週刊誌の売り上げが倍増だろうね)。その母である?野讚良にも気になることであっただろう。しかし、大津は臆することはない。

大船の 津守が占(ウラ)に 告(ノ)らむとは まさしに知りて 我が二人寝し

津守の占いでみんなに知られてしまうことなんかは前からわかっていて、私たちは夜を共にしたんだ

大津皇子・万葉集巻二・109

何とも剛胆である。このスキャンダルが後の悲劇を招いたとも思わせるような歌だ。
これは、ちょうど彼等の父天武が額田王という女性をその兄天智と取り合ったことが二人の関係を壊し、後の壬申の乱の遠因となったという考えとも重なってくる。私はいずれの考えにも与することは出来ない。けれども、そう言った考えが、これらの歌々を組み合わせ物語として構成していった当時の人々が、この皇子の悲劇をかくのごとき悲恋の物語に仕立て上げ、ひそやかにその生前を偲んでいただろうことは否定し得ないように思う。

大津皇子、死を被(タマハ)りし時、磐余(イハレ)の池の堤にして涙を流して作らす歌一首

ももつたふ 磐余(イワレ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠れなむ

磐余の池に今日も変わらずに鳴く鴨たちよ・・・お前たちを見るのも今日を最後に私は世を去って行くのだ。

大津皇子・万葉集巻三・ 416

「ももつたふ」は「いはれ」の「い(五十)」のかかる枕詞。百という大きな数に伝いゆく数字として「五十(イ)」の音に注視したのであろうと同時に、百に到るまでの永きの間との意味もそこにはこめられている・・・すなわちその対象たる磐余の池、そしてそこで繰り返されるであろう鴨たちの営みの永続性をも表象しうる言葉として理解することが可能であろう。

磐余の池は桜井市南西部から、橿原市北東部にわたる地域のこと。「磐余の池」はそこにあった池と思われるが、今その正確な位置は知り得ない。大津皇子の家はその近く、訳語田(オサタ・・・桜井市戒重付近゙)にあった。

鳴く鴨はここでは生あるものの象徴として描かれている。上記のように「ももつたふ」という枕詞に飾られた「磐余の池」はいつの代までも永遠に続くものであろう。そして、そこで鳴く鴨の姿も絶えることなく存在し続けるものであるかのように作者の目には見えたのであろう。であるがゆえに、下二句の「今日のみ見てや 雲隠れなむ」はより重く響く。
「雲隠る」は「死ぬ」の婉曲表現。刺激の強い「死ぬ」という言葉を避けてこのように言った。主に貴人の死を語る場面に使うことが多く、そのことから自らの死を歌ったこの歌にこの語が使われるのは不自然であるとして、この歌を後人の仮託であるとする説もある。けれども虚心にこの歌を読むならば、この歌の持つ切実さはそのことを否定して余りあるものがあることに気付くことができるであろう。

ともあれ大津皇子は世を去った。齢24であった。皇子はまた漢詩の才にも恵まれていた。

金烏 西舎に臨み
鼓声 短命を催す
泉路 賓主無し
この夕 誰が家にか向ふ

懐風藻

壬申の乱に勝利した天武天皇は673年に即位するや太田皇女との間に生まれた大伯(オオク)皇女(13才)を伊勢神宮に斎宮(イツキノミヤ)として遣わした。斎宮とは天皇の即位に従って、その即位期間中、天皇に成り代わって伊勢神宮に奉仕する皇女で独身でなければならない。大伯は先日述べたように大津皇子のたった一人の姉、二人の母が早くに世を去っている以上、天皇である父、天武を除けば、互いがこの世でたった一人の身内同士である。

この姉のもとを大津は「窃(ヒソ)かに」訪れている。斎宮はあくまでも公の立場である。例え実の弟であろうと無断でしかもプライベートで訪れることは許されるべくもない。しかも、かつて壬申の大乱の際に、父、天武天皇を勝利に導いた天照大御神の祭主としての存在である。それをあえて「窃かに」逢おうというのだから、大津謀反の志ありと思われても仕方ない。

では、何故、そのような危険を冒してまでも大津は姉のもとへ向かったのか・・・・
まず、いつ大津は伊勢に下ったのか。これについては大方の意見として天武崩御から大津逮捕までの20数日間のうちのどこかであろうと考えるしかない。けれども天皇の葬儀が延々と続いている中、大津にとって伊勢往復の日数はそう簡単に生み出せるものではなかった。皇太子ではなかったといえ若くして政治にも参加した重要人物が、この大事な場にいないことは許されない。きっと、それは周囲に知られ、その事が結果的には彼を追い込む一因になったかも知れない。

では、なぜ大津皇子は伊勢に下向したのか。壬申の乱を思い出して頂きたい。真っ先に彼の父、天武に兵を率いて従ったのは、伊勢である。そして彼は伊勢神宮を遙拝する。その後彼の軍勢は一気に数万に膨れ上がり、その勝利へとつながった。すなわち、天武の勝利は伊勢神宮のご加護であったのだ。また、更に遡ると半ば神話の世界に入ってしまうのだがクマソ平定を成し遂げた日本武尊が父景行天皇にすぐさま東国の平定を命ぜられ、悩みに悩んで助けを請うたのも伊勢神宮にいた叔母倭姫命であった。 大津皇子は、伊勢神宮、天照大神を我が方に引き入れようとしたのだ。皇祖神である天照大神が我が方につくと言うことは、それだけで自らの皇位の正当性は保証される。当然、その加護も期待してはいるだろう。しかも、今、伊勢の斎宮は我が姉、大伯皇女である。彼は、その姉に働きかけ、伊勢の大神の力を我がものにしようとしたのではないか。

人目を避ける故、夜、しかも場所は外であった。季節は秋、今の暦でもう11月頃であろうか。けれども、大伯は大津の期待には応えることは出来なかった。斎宮という「公」の立場が「私」の行動を抑制したのだ。おそらく、二人は多くを語ることなく別れたであろう。大津はそう長い時間、伊勢に滞在することはなく再び大和へ向かう。

我が背子を 大和へやると さ夜更けて 暁(アカトキ)露に 我立ち濡れぬ

私の愛おしいあの方を大和へ送り出してやるとて、夜明け方の露に濡れてしまいました。

二人行けど 行き過ぎがたき 秋山を いかにか君が 一人越ゆらむ

二人で入ったとしても、なかなか行きにくいこの秋山を、今あなたはどのようにして越えていらっしゃるのだろうか。

大伯皇女万葉集巻二・105・106

「公」の自らの責務と、姉としての私情とに大伯は引き裂かれる。けれども、最後は「公」を選んだ。弟、大津は目的が果たされず、うなだれて大和へ向かうしかなかった。その先大和で起こりうる事柄は、二人にはもうわかっていたはずだ。大和には帰したくはない。けれどもそれはかなわぬ事。「大和へやると」にはそんな大伯の思いがにじんでいる。

皇女としての彼女の生育歴の中で朝露に濡れるなどと言う経験はおそらくなかったであろう。ことの、尋常ではないことがうかがわれる。そして、出来るならばついて行ってあげたかった。けれど、それもかなわないこと。一人うなだれて秋の山を越えて行く弟の姿が、大来には見えた。自分がついていてあげても寂しいこの秋山を、あの子は・・・

13才で伊勢に来て、それから10数年離れて暮らした姉にとって、弟はまだ10才になったばかりの少年であった。大津皇子事件が発覚し、しばらく立って大来皇女は斎宮(イツキノミヤ)の任が解け、大和に帰ってくる。けれども、帰ってきた大和には語りあえる人はもう誰もいない。父、天武は世を去り、たった一人の肉親である大津皇子は同じくこの世にはいない。言いようのない空しさが彼女を包み込んだであろう事は容易に想像できる。

神風(カムカゼ)の 伊勢の国にもあらましを 何しか来けむ 君もあらなくに

そのまま伊勢の国にいたらよかったのに。いったい私は何をしに大和へ帰ってきたのでしょうか。あんなに逢いたいと思っていたあの人はもういないというのに

大伯皇女万葉集巻二・163

伊勢にいれば、おそらく感じなかったであろう孤独を彼女は感じている。大和に帰って初めて、弟大津がもういないことを思い知らされた。離れていれば実感することのなかったこの孤独も大和にいれば避けがたいものとなる。

うつそみの 人にある我や 明日よりは 二上山を 弟(イロセ)と我が見む

この世の存在である私・・・明日からはあの二上山を弟と思って生きていきましょう

万葉集巻二・165

このまま未来永劫、己が命ある限り二上山を見守り続けようと言うのだ。かつて、弟の思いに応じることが出来なかった自分。そんなおのれを責めつつ、自分に出来ることは何か。彼女が出した答えだった。この後、彼女は15年後、彼女は弟の元に旅立つ。41才であった。それまで彼女がどのような人生を送ったのか、歴史書も、万葉集も何も語ってはくれない。

この大伯皇女という歌人、いや歌人と言うべきではないであろう。おそらく多くの人々が人生の折々に歌っていたであろうこの時代、彼女にいわゆる歌人という意識はなかったであろう。ただ、自らの思いの丈を言葉にしただけである。けれども、そんな彼女のいくつかの作品は万葉集の中でも私の好きな歌のいくつかの中に入る。歌人、佐佐木幸綱は大伯皇女の作品をして「静寂を湛えた透明体」と評する一文を書いていた。誠に的確な評であると思う。

以上大津皇子の事件について、万葉集の歌を通して眺めてきた。これら全てが、後人による作品だという説がある。大津への追慕の念が大津皇子物語なる語りを作り出し、その中で組み込まれてきたのが一連の作品であって、必ずしも大津、大来の作品とは考えられないのだという。私はそうではないのだと思うのだが、仮にそうであったとしても、この物語を享受していた万葉人は疑うことなく大津、大伯の作品として受け取っていたことは確かであろうと思う。

それで、良いのではないかと思う。

<追記>

上記の

うつそみの 人にある我や 明日よりは 二上山を 弟(イロセ)と我が見む

と同じころ読まれた歌である。

石の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が 有りといはなくに

あの大きな石の上に生えている馬酔木の花を手折ろうとはするのですが、見せたいと思うあなたがいるとは、誰もいってくださらないので・・・・

大伯皇女・万葉集巻二・166

大津皇子事件の後、大伯皇女が詠んだ歌である。もちろん、この歌で「君」と呼びかけられているのは、この時はすでに世を去っている大津皇子である。皇子の死後、その姉、大伯皇女が亡き弟を思い詠んだ歌と多くの人が理解している。

大和路の春を飾る馬酔木の花は目立ちこそしないが、可憐で美しい。そんな花を見かけたならば、誰だって手折り親しい人間に示してみたいと思ってしまうだろう。けれども、彼女にはその相手は誰もいない。唯一その対象であった弟も死を賜り、すでにこの世の人ではない。

ただ、この歌の哀しみはそこだけにあるのではない。 結句 「有りといはなくに」に注目しなければならない。弟、大津皇子がこの世の人間でないことは大伯皇女にとってすでに周知の事実である。誰もあなたの弟は生きていますよなんてくれるはずはないし、言えるはずもない。

なのに、その弟がいると誰もいってくれない、と嘆くのはなぜなのか。

これは当時の風習を理解しなければならない。他の万葉歌を見るところ、この時代どうやら身内をうしない嘆き悲しんでいる人に対して、あなたの愛しいあの人をどこそこで見かけましたよ、と言って慰めてあげることが一般的であったらしい。

なのにこの姉に対しては誰もそんな言葉をかけてはくれない。罪を背負い世を去った大津皇子であるがゆえ、例え嘆き悲しむ大伯皇女を哀れに思っても周囲をはばかり、そんなことを口には出来なかったのであろう。けれども、姉にとってはかけがえのない弟。その大切な弟を、いったい誰がかくもせつない状況に追い込んだのか・・・・ けれども、誰を責めることも出来ない・・・・ ・・・・そんな行き場のない怒りが姉の哀しみをいっそう、つのらせたように思う。

この歌以降、皇女は一切の沈黙を守る。これほどの歌を残した歌人であるならば、それなりの作品が残っていてもおかしくはない。 けれども、この歌を最後として彼女は一切の作品を残してはいない。記録されなかっただけの可能性は考えられるが、おそらく、歌うことを止めたのではないかと私は思う。 彼女は、あらゆる晴れがましい場を避け、亡き弟を偲びながら残された人生をひっそりと過ごしていたと考えたい。