纏向遺跡聞書

以下の文章は、かなり以前・・・そう、例の纏向の大規模建造物の発見よりも数年前に書いたものである。機会を得て、この遺跡の発掘を担っている方のお話を聞き、そのお話から受けた刺激に任せて、1時間ほどで一気に書き上げたものである。大筋は、その時のお話の要約・・・ということになるが、私のいい加減な記憶に頼ったため、どれほど正確に再現できているか自信はない。したがって、後から読んでみてあんまりだなと思うところについては何度も修正を試みた。けれども、そこにもかなり私の主観も混じっているに違いないとは思う。充分に眉に唾をつけてお読みいただければ幸いである。


<はじめに>

2009年11月、私の住む奈良県桜井市は一つの話題で大きく盛り上がっていた。纏向遺跡第166次調査に於いて3世紀前半のものと思われる建築遺構が発見されたのだ。その規模は19,2m×12,4m3世紀中頃まででは国内最大規模のものであった。かの邪馬台国とも比定されているこの場所で、この時代の巨大な建築遺構の発見にはただらぬ意味があることは言うまでもない。古代史のフアンならずとも多くの人々耳目を惹きつけたに違いない。けれども、この発見は偶然の産物ではない。 かれこれ40年、165回にも渡る調査の中で、ある程度は予想されていた内容であった。小規模ながらもたゆまぬ調査の結果は、この遺跡の外濠を着実に埋めていた。そして今回やっと本丸をに辿り着いたのだ。そして私もその可能性を、同じ年の3月には知ることが出来ていた。 2009年3月、末の頃であっただろうか。私は、ある場所で、この遺跡の発掘担当者の講演を聴く機会に恵まれていた。あまり、多くの人の前では話慣れていないような、実直な語り口ではあったが、その発掘にかける意気込み、熱意というものが確実に伝わってくるような語り口であった。訥々と、そして誠実に語る彼の話は、あくまでも発掘された「モノ」という事実においてのみ展開され、大上段に振りかぶり衆人の目を惹くような所はいっさい感じられなかった。けれども、その内容は極めて興味深く、おおかた100分におよぶ講演ではあったが、ほとんど退屈する事無く終わった。

<遺跡概略>

現在、地名としては巻向と書くのが正式なものとなっているが遺跡名としては纏向遺跡で通っている。ひとくちに纏向遺跡と言っても時期的に前期と後期に分けられている。前期が100年代末から200年代前半、後期が250年以降から300年代の前半にかけてのものだという。そして、この遺跡の規模は前期で1km四方、後期は東西2km、南北1.5kmに及んでいる。以後、藤原京が出現するまで例を見ない巨大さだ。 西暦100年代、すなわち2世紀の中頃、奈良盆地には25~27の弥生集落があったという。歴史の教科書でおなじみの唐古遺跡もその一つだ。ところが、それらの遺跡全てが西暦200年代にはいると忽然と姿を消す。そしてそれにとって代わるような形で姿を現すのがこの纏向(マキムク)遺跡である。ちなみにこの纏向の地には弥生式の文化を伝えるような遺物は発見されていない。何もなかった場所に突然に巨大な都市が出現したのだ。 なぜ、多くの集落が姿を消したのか・・・?そしてこのような巨大な都市がなぜ突然現れるにいたったのか?この疑問に対する答えが、これから記そうとして入る中にあれば幸いである。

<発掘される土器から>

まず、こういった遺跡からの出土物というとまず土器というのが頭に浮かぶが、ここ纏向遺跡における土器の出土状況にはある特徴がある。それは発掘される土器のいて他地域の形式、及び他地域の土を使った物が30%を占めるという事実である。その範囲も広く、列挙すれば北陸・東海・近江・河内・吉備・阿波・讃岐・出雲・そして九州北部から、関東にまで及ぶという。これはこの地域に、この時代これほどの広範囲から人が集まっていたことを示す。 更に興味深いこととして、形式は地方のものだが、大和の土によって作られた土器もいくつも発掘されていることがあげられる。これは、自らの文化を以て地方からやってきた人々が大和に長期間住みついたことを意味するといわれている。おそらくは、地方から大和へとやってきた人々は、初め自分たちの地域から持ってきた土器を使っていたのだろう。けれども、大和に滞在すること長期に和たっり、持参した土器は破損した。彼らは仕方なく大和において、大和の土で、自分たちの地方の形式の土器を作ったのである。短期の滞在ならばそのようなことは起こりえない。 ではなぜ、この時期にこれほどまでにこの纏向に人が集まっていたのか。これを現代の社会に置き換えてみよう。地方から集まってきた人々が長期間滞在しうる場所・・・言うまでもない。首都だ。東京である。この時代、この地域は「倭」の首都的な位置づけを持った場所であったという推定がこの事実から導き出される。

<スキとクワから>

纏向が「倭」の首都であったという推定を補強するべき事実として、次のような事実がが挙げられる。このような遺跡でよく見つかるものとして、土器の他に木製の農具類が挙げられる。そしてその発掘の状況も、、この纏向においては他の地域と決定的な相違を持つ。スキとクワがそれだ。一般的な他の地域の同時代の遺跡においてはクワの数がスキの数を圧倒する。遺跡によりその比率は異なってくるが、平均すると7対3というところらしい。クワが7,スキが3である。これに対して、ここ纏向遺跡ではスキが95%、クワがわずかに5%にしかならないという。 この事実から我々はどのような意味を読み取ればいいのか。 考古学の世界において、今はどちらも農耕具として認識されているスキとクワという二つの道具は、その使用目的に大きな違いがあるされている。クワは今と変わらぬ農耕具として用いられていたが、スキはどうもそうではなかったらしいのだ。どちらかと言えば今のスコップ的な役割を果たしていたというのだ。つまり、土木建築の道具であったのだ。この事から敷衍されるのは、この纏向遺跡においてさかんに土木工事が行われていたという事実だ。そして、その裏返しとしてこの時代、この地域では農業がほとんど行われていなかったという事実も導き出される。だから農耕具であるクワは使われることがほとんどなかったのだ。その事と軌を一にして、この遺跡からは200年代から300年代前半にかけての農地は今のところ発見されてはいない。ということは、この場所は農業がほとんど行われてはおらず、土木建築がさかんに行われていたと言うことになる。いったい古代の集落の基本は農業であり、自分たちの口を糊するものは、自給するのが一般的であったことを考えると、纏向遺跡のこのようなあり方は極めて異質のものと考えなければならない。かつてこの地域に住んでいた人々は、他の地域から流入するものをして口に糊することをもっぱらとし、自らは農業には関わらずにいたと考えていいだろう。 これらの事実は、今の社会のあり方から類推するに、やはり、この場所が政治的な中心地であったことを想像させる。しかも、その人口を構成している層は、その土器の出土状況を考え合わせたとき、東は東海・北陸から西は九州北部のまで及ぶ地域の中心であったと考えるしかなさそうである。

<纏向大溝>

これまで述べ来たった事実に加えて、この遺跡の推定範囲に隣接する小学校の校地内において更に興味深いものがここからは発見されている。纏向大溝と呼ばれている溝がそれだ。幅5m、深さ1.2m、推定総延長2kmのこの溝は、桧の矢板で護岸されている。 他の同時代の集落においては防衛用の環濠がもうけられている場合が多いが、この溝は1,2mと浅く、防衛用のものとしてはあまり役に立つものとは思われない。では、農地への灌漑が目的か・・・。それにしては5mという幅は逆に広すぎる。それに前段でも述べたようにこの地域において農業が行われていたと推定するに足るような積極的な資料は発見されては居ない。発掘された資料は逆にこの地域においては農業が行われていなかったと考えるべきことを暗示している。とすれば、この溝が灌漑目的のものもなかったと考えるべきであろう。 ならば、この溝は何のために作られたのか・・・ 実はこの溝の一部分からは、荷物を揚げ降ろしする施設が見つかっている。これがこの溝の使用目的を運河と確定するべきほどの証拠となり得るかどうかは自信はないが、現時点においては、そう考えるのが一番自然なのではないかと思う。この溝は大和川に直結しており、大和川はそのまま瀬戸内海にそそぐ。内陸に位置するこの集落ではあったが、水を媒介として纏向は大陸に直結していたのだ。 しかしながらかような巨大な集落が、その防衛のための施設である環濠を持たないのはなぜか、と疑問を感じる人もいらっしゃるだろう。多くの弥生集落から防衛のために高地に築かれたり、その周囲に環濠が周囲を囲っていた事実から照らし合わせて、この纏向遺跡の有り様は少々異様である。 答えは、そのような施設を設けてまでもこの集落を守り必要がなかったと考えるべきであろう。この纏向に刃を向けるような勢力はこの時期すでに存在してはいなかったのだ。いくつもの国が連合して強大化した勢力はこの大和盆地の西南の一画をその首都として選定した。であるならば、その勢力の範囲内で戦闘が行われることは考えにくいし、その巨大な勢力の範囲外にあった国々も、その力の開きからしてうかつにその首都に侵攻することなどはありえなかったであろう。 それは天武天皇が企図し、持統天皇によって造営された藤原京において、その外周が外堀と大垣だけであったことと理由を一にする。古代中国の都は高々とした城壁に守られていたが、この藤原京はそれらの都城をモデルとしたものの、この城壁だけは模倣しなかった。壬申の大乱を勝ち抜き、強大化し「神にしませば」とまで称された天皇家勢力に矛を向けるものなどはないとの考えに基づくものであろうと推測されている。さらには道教に精通していた天武天皇が大和三山に鎮護され、鬼門を三輪山、裏鬼門を葛城山という霊山に守られたこの地が戦火にまみれるなどと言うことは想定されていなかった。 纏向の地もこれと同じような場所と意識されていたのではないか・・・ そんなふうに私には思われてならない。>

<纏向遺跡の住居>

さてここまで私は数度にわたってこの集落がいくつもの国が連合して強大化した勢力がその首都として選定した場所であると述べた。それはすでに述べ来たったようなこの地域における土器・スキ・クワの出土状況のみならず、この地域内で発掘された住居跡の有り様からも裏付けられる。 古代人の住居として我々がすぐに想起するのはいわゆる竪穴式住居であるが、この住居は結構遅い時期まで使われていた。大和においてもこの纏向以外の地域では、飛鳥時代までは竪穴式の住居跡が多く見られる。 ところが、ここ纏向遺跡においては3世紀という時代にかかわらず、その形跡が無く、平地式住居、すなわち床のある住居が主流であったらしい。彼等は、地べたには住まない人々だったのだ。当然の事ながら、このような住習慣は、生活のレベルとしてはかなりランクの高い人々のものと見てよい。そのような生活レベルの高い人々の住む場所で纏向はあったようだ。ここに一定の意味を読み取ることは容易いだろう。 そもそも、なぜこの集落多く居住していたと思われる高水準な生活レベルの人々とはどのような人々なのであろうか。仮にこの纏向が一地方勢力に過ぎないのであれば、そこでかような水準で生活できるのはその首長とその周囲の人々に限られるであろう。翻って言えば、この地域における住宅跡の出土状況はここにすんでいた人々が首長、あるいはそれに準ずる人のみであったことを意味する。 ならば彼らはどのような人々であったのか。それは当時強大な勢力を誇っていた政治勢力・・・いくつものクニの連合の首長、あるいはその首長から全権を委任された代表に他ならない。そして、そのような人々が集住する地域とすれば、それは首都以外に考えられないではないか・・・

<ベニバナ花粉の発見>

ところで、上記の纏向大溝からはベニバナの花粉が発見されているが、ここでその意味を考えてみよう。 ベニバナは日本はおろかアジアの諸地域には自生が確認されていない植物であり、意図的に栽培されたのでなければ、その場所には存在し得なかったものと考えられている。 これまで、日本においてこのベニバナの花粉が発見された例は、古くとも6~7世紀であった。その豪華な装飾品の発見で話題になった藤ノ木古墳。そして、斑鳩に移る前に聖徳太子が住んでいたと思われている上宮遺跡の例がそれである。ところが、この溝からは、3世紀という極めて早い時期に、周囲一帯がベニバナ畑でなければ考えられないような濃度で、その花粉が検出されている。 ところがそのようなベニバナ畑がこの近くにあったことを示すような発掘はなされていない。とすれば、この遺跡の中心地域に、どこか他の場所からベニバナ染めの材料が運び込まれ、染色の営みがあったと考えるしかなさそうである。その材料がどこから運び込まれたものかははっきりしないが、当時おそらくはかなり貴重であったと思われるベニバナ染めがこの地域で行われていたと言うことは、ある興味深い事実を想起させる。 実は、例の邪馬台国論争で名高い女王卑弥呼以降、「倭」は数度、魏に使いを送っている。その際に、幾つかの貢ぎ物の中に青と赤との絹織物が上げられている。その赤の部分はおそらくベニバナで染めたものだと推定される。さきほども述べたように、この時期ベニバナの花粉が発見されるのはこの纏向遺跡の他にはない。少なくとも今の段階での発掘が示す事実からとの限定的なことではあるが、以上の事実が何を意味するかは、これまで述べてきたことからも考え合わせれば、ある一定の推論を導き出すことが出来るであろう。

<対外的な位置づけ>

1997年から翌年にかけて行われた調査の過程で奈良県天理市は柳本に位置する黒塚古墳から大量の三角縁神獣鏡が発見された。この発見に際して、邪馬台国畿内説を唱える学者は、これで邪馬台国が畿内にあったことは決定的になったと考え、、九州説を唱える人々からは、それを是認しない意見が数多く出された。その詳細について語ることは私の力には及ばない。しかし、「モノ」が暗示する事実はについてそう簡単には否定できないことは確かであろう。以下、既述以外の纏向遺跡より出土した「モノ」について知る限りを述べてみたい。 もし、今まで述べてきたように纏向が「倭」の首都だったとして、「倭」が隋との交流を持っていたことから考えると、その交流の証拠となる「モノ」が存在しなければならない。そのひとつとして、鐙(アブミ)の発見がある。鐙とは馬に乗るときに足を乗せておく道具だが、これがこの地域最大の古墳である「箸墓」の濠あとから発見されている。 ご存じのように馬は日本には原生しなかった動物で、古墳時代後期に大陸から渡来した生き物であったとされる。このことが例の騎馬民族制服説の根拠ともなるのだが、ここにそれに先立つ3世紀中盤の古墳からに鐙が発見されたと言うことは、いったいいいかなる意味を持つのか。 馬の存在がなければ鐙自体意味を持たないものになるのであるから、少なくともこの地域に、その数の多寡はともかく「馬」がいたことを意味すると考えるのが穏当であろう。一般に馬の伝来は、その骨、馬具、馬型埴輪が4世紀末から、5世紀初めの古墳から出土されることが多いことから、この時期に日本に伝来したようにも考えられている。しかしながら、この箸墓からの鐙の出土はそれに先立つこと100年以上前の馬の伝来を証明するものになる。 その伝来のあり方としては、大陸との対外的な交渉の中で贈呈品として伝来してきたものと考えるのが妥当といえるであろう。ならば、その他国からの贈呈品が纏向遺跡に関係の深い箸墓の周辺から出土したということは、つまり、この場所こそが王のいた場所であり、その王が対外的な交渉を行っていたからこそ、鐙がこの場所から発見されたのだと考えることを指示する。 さらにもうひとつ。この地域で発掘される鏃(ヤジリ)についてである。基本的に日本で作られていた鏃の断面は菱形のものが多い。が、この纏向遺跡で発掘されるものはバラエティーにとんでいて円形、正方形、三角形のものが多く見られる。これは大陸に多く見られる形のものだ。しかも木製だ。 同時期、すでに日本において銅製の鏃が多く作られている。纏向遺跡のように文化の発達した場所においてまだ木製の鏃しか作られなかったことは考えにくい。この木製の鏃の意味するところは何か。おそらく、実用性の低いこの木製の鏃は祭祀用のものだったのだろう。だからこそ、その形態は進んだ文化を持ったあこがれの対象である大陸のものと同じ形式のものを用いたものと思われる。そして、そのような大陸的なものを模倣しうる場であったこの纏向の地は、海外の文化がしきりに流入してくる場所であったに違いない。

<前方後円墳の語るもの>

ところで、我が国の独特の墳墓のスタイルとして前方後円墳をあげることができるが、定型化した前方後円墳の発祥の地としてこの纏向の地を上げることにさしたる異論はなさそうである。なぜならば、定型化された巨大前方後円墳としては最古のものと思われる箸墓古墳がこの地に存在するからである。そしてその後裔とも言うべき崇神天皇陵、景行天皇陵といった巨大な前方後円墳がこの地に隣接する地域に作られている。陵墓の巨大さがその地域の権力の巨大さを示すとすれば、この地域がこの時期の政権の中枢であり、これらの古墳はその王墓として考えることはさほど不自然ではない。 諸説分かれるところはあるが箸墓古墳の築造の時期は遅くとも3世紀後半を下ることはない。これに続く崇神・景行陵もそれからは百年を下らない時期に築造されていることに疑いはない。そして、これらの定型化された前方後円墳という形式が以降諸国に伝播し、その分布状況は汎全国的といってもいい広がりを見せる。この纏向の地に発生した政権の全国的な広がりを物語るものといってよい。 そして箸墓古墳に先行するように・・・箸墓古墳から比べれば小規模ではあるが、その築造の時期を考えれば・・・大型といってよい古墳が纏向の周辺に散在している。後の定型化された前方後円墳に比べれば、前方部がやや未発達の纏向型と呼ばれる前方後円墳群である。これらの纏向型前方後円墳は纏向の地に多くの人々が集まり始めたと見られる二世紀末あたりから築造され始めており、この二者の関係は浅からぬものがあることを窺わせる。 しかしながら、この前方後円墳というスタイルは、それまで大和、いや畿内では地では見られなかったスタイルであり、小規模ではあるが、その先駆的な形式の墳墓・・・円墳に小規模な方形の突起物がついたもので、この段階ではまだ前方後円墳と呼べるものではないが、それ以前の円墳とは明らかに様相の違う墳墓が・・・吉備地方で多く見られている。 さらには、一緒に埋葬されている土製品の形式も吉備の様式を受け継ぐものが多く、ここに纏向の地における都市の発生に関して吉備地方の勢力が一躍を担った可能性の大きさを感じ取らねばならない。この遺跡のある桜井市には今もなお吉備という大字名が残っていることも吉備の勢力の流入の可能性を語る証左と考えてよいのかもしれない。 さらには、この域内の古墳には破砕された鏡が一緒に埋葬されている例も少なくない。これらは北九州地域の墳墓に多く見られる習慣であり、纏向以前には他の地域ではあまり例の見られなかったものだ。さらには古墳全体を覆う葺石の存在が多くの古墳に見られているがこれは吉備から出雲にかけて、あるいは四国などでみられる様式で、それまでの大和では見られなかったものだ。朝倉・出雲というやはり現在も同市に残る大字名は上に同じように北九州・出雲の勢力の流入を裏付ける証左となろう。 それでは大和のオリジナルは・・・ 周壕の存在がそれである。上に述べ来たった地域においての墳墓では少なくとも纏向以前には周囲に壕を巡らすような習慣は見られない。これは大和から尾張にかけての習慣であるといってよい。そして纏向以前、以降も含めて大和の地においては一つの墳墓に一人の死者を葬る。他の地域が一つの墓に複数の死者を祀ることがよく見られることから見れば、これのみは大和特有の風習であったといえるかもしれない。 さて、これらの事実を考え合わせたとき、そこに西日本諸国が参加した巨大な連合政権の存在が見えてくる。北九州・吉備を中心とした瀬戸内。出雲・伊勢湾沿岸部、そして大和のうちのどれか一つが突出した力をもってして他を強権的に服従させたのではなく、それぞれの勢力が融和的に関係を結んだ連合政権の姿が・・・ もし仮にそのうちの一つの勢力がその強力な力を持って他を服従させたのだとしたら、この連合政権の象徴ともいえる前方後円墳はかくも多文化的な様相は見せず、他を制圧した勢力のオリジナルのスタイルを貫くであろう。そこに他に譲らねばならない理由はどこにもないそれぞれの勢力が融和的に結合していったからこそ、それぞれの地域の文化の特色を併せ持った定型の前方後円墳が誕生したのである 。

<倭国大乱から連合国家「倭」の成立へ>

以上の事柄からこのことから想起されるのは、いわゆる「魏志倭人伝」(正確には『三国志』魏書東夷伝倭人条)に書かれている「倭国の大乱」以降、「卑弥呼」擁立にいたるまで、そしてヤマト政権の確立までのの歴史的な流れである。 ここから少々話の内容は「モノ」を重視する考古学の立場から離れる。しかしながら、これまで述べてきた事実から連想されることには変わりはない。 西晋の人、陳寿が3世紀末(280~290)に記したこの1988(2008とも言う)の文字は、我が国の古代史を究めようとする人々に今もなお疑問を投げかけ続けている。いわゆる邪馬台国論争である。本居宣長、新井白石あたりから始まった論争が未だ決着を見ることはない。 邪馬台国はどこにあったのか、女王卑弥呼はどこにいたのか・・・興味は尽きないが、ここはちょっと目をつぶっておいて、いわゆる「倭国の大乱」について考えてみよう。 卑弥呼が魏に使いを送る時期の7~80年前、「倭」はいくつもの国に別れて相争っていた。が、その争いの内実はどうやら冷戦と呼ぶべき質のものであったと思われる。少なくとも現在の考古学の成果はそう語っている。 大規模な戦闘が行われたことを示すような発掘は未だなされていないのだ。大量に死人が出るような、後の戦国時代のような状態ではなく、下世話に言えば互いにいがみ合い非協力的であったと言うような状態であったらしい。しかし、そのような状態が長く続けば互いが疲弊してくる。まあ、「もう、そろそろええやないか。」というような空気が生まれてきても不思議はないだろう。 くわえて、当時の大陸の状況は、漢の崩壊から三国時代へというのがこの時期に当たり、それぞれの国が強大化してくる時期に当たる。北辺にあった魏は朝鮮半島に進出するようにもなる。その勢いを駆って・・・ということもあながち考えられないことではなくなってきていた。少なくとも当時の倭人たちにはそう思えたのであろう。もはやバラバラにいがみ合っている場合ではなくなってきた。 以上のような事情が絡み合って、幾つかに別れていた国々に一つにまとまろうとの機運が生まれてきた。そして、連合国家としての「倭」が生まれてくるのである。

<なぜ纏向なのか>

これまで述べ来ったことから、この纏向の地が、少なくとも3世紀のこの国の中心地であったことは疑いを入れない。とすれば、この纏向がなぜその中心地でなければならなかったのであろうか。 一つには、大和がどちらかと言えば弱小な国であったことがあげられる。逆説的ではあるがこのことが大きな要因だった考えられる。たとえば、幕末、徳川氏を打倒した新政府が自らの出身地、薩摩なり長州をあえて首都の候補から外したのはなぜだろうか。もし、どちらか一方を首都にしたならば、もう一方は黙ってはいないであろう。それではまとまる話もまとまらない。北九州なり瀬戸内沿岸、そして出雲は大陸と海でつながっているという利を生かし、それなりに強大な力を持っていた。そのいずれかが己が地を首都にと主張しあったらどうなるか。 もちろん、あの幕末においてなぜ朝敵の拠点、江戸にその首都をさだめたかについては、ほかにも多くの考えが存在しうるし、おそらくはそちらの方が正鵠を得ているだろう。けれども、上記のような理由が心的な要因の一部にはあったとは言い切れないようなものが感じられてならない。 次に、北九州では大陸に近すぎると言うことも考えなければならない。もし、このころ朝鮮半島の北部に侵入し始めていた魏が攻め込んできたら、その首都はひとたまりもなく占拠されてしまう。そこで、大陸からはかなり隔たった場所の大和が選ばれたのではないか。この事情は出雲でも変わらない。 さらには、この時期まだ東国は、その「倭」の輪の中には入っていない。これを何とか自らの範疇に組み込んで行くためには東国への拠点として大和が最も適していたとも考えられる。なぜならば、大和は東国へのルートを早くから持っていて、さらには大和川を介して瀬戸内に通じ、「倭」がその勢力を広げうる東端に位置していたのだから・・