葛城古道

鴨都波神社

近鉄御所(ゴセ)の駅を降りると、その西に我々を威圧するように聳えるのが葛城山だ。今は「カツラギ」と読むのが普通であるが、古代においては「カヅラキ」と読み、「葛木」と書くこともあった。 語義から考えれば、あるいは「カヅラキ」のほうが正しいのかも知れない。

今はその南方にある金剛山と区別して考えることが多いが、いにしえの人々にとって、この二つの山をあわせて葛城の山であった。そしてその東麓を縫うように走るのが葛城古道だ。大和盆地東端の山辺の道は初めから政治的な意図を持って作られた人工の道であるが、この古道はどうやら人が歩くことにより生じた自然道であったらしい。 道があったから人がそこを歩き始めたのではなく、そこを歩く必要があったからそこに道が出来た・・・・ 葛城古道はそんな道だ。
必要に応じてで来た道だけあって、そこにはあまり計画性がない。道は大きくうねり、そして激しく上下する。そんな道順を私は、ここできちんと説明しきれる自信はない。いきおい、ここに書く内容はこの道に沿って点在する、そんな神社や寺院についての紹介のようなものになるのかも知れない。

ともあれ、歩き始めよう。

近鉄御所駅を降りて、まずは東に進む。ほどなく南北に走る車どおりの多い道に出る。国道24号線だ。この道を南に曲がる。しばらくすると左手に100m四方のこんもりとした鎮守の森が見えてくる。鴨都波(カモツバ)神社だ。祭神は事代主(コトシロヌシ)神と下照姫(シタテルヒメ)。かつて、この辺りを支配していた葛城氏・鴨氏が大切にしてきた神社だ。これからめざす最終目的地の高鴨神社が上鴨神社と呼ぶのに対し、この目の前のやしろは下鴨社とも呼ばれる。事代主神は元々は鴨氏が信仰していた神だという。あの大国主神の息子である。天孫が高天原から降りたって大国主に国譲りを迫ったとき、大国主はこの息子である言代主の意見を求めた。大国主にとってそれほど重要な存在であったのだろう。大国主はもともと出雲の神。 だから、その息子も・・・・と考えたくなるが、この言代主はすぐに出雲系の上であるとは言い切れないらしい。この神は元々は、この葛城周辺に信じられていた農耕の神であるとの考えが一般的だ。それが、どうして出雲に住む神様と親子なんてことになったのか・・・・ 神様のことは難しくてよく分からない。

そういえば、山辺の道の南の出発点、大神(オオミワ)神社の祭神は大物主神という。ところがそのまたの名は・・・・大国主神。大物主はもともと大和の地の神。それが、そのまたの名は出雲の神になるのだという。実にややこしい次第である。このことを説明し出せば、長くなるし、また上手に説明しきれるならばそちらで口に糊することも出来るほどやっかいな問題だ。私にはそんな自信はさらさら無い。ゆえにこの神名論議はここまでにして、ここではこの周辺が 、

  • 鴨都波遺跡という遺跡であること。
  • そこからは弥生時代の土器や農具が多数出土していること。
  • そんな時代から鴨氏がこの地に住みついて農耕をしていたことがわかる。

という事実だけ紹介し、道を先に急ぐことにする。

祟道神社

道を葛城古道へと戻そう。鴨都波神社から再び近鉄御所駅へと戻る。駅に戻ったら、駅の南側の道を西へと上る。結構急な勾配だ。800mほど上って行くと道は左へと直角に曲がる。余り広くはない道なので車ではちょいと厳しい道だ。そしてその突き当たったところにあるのが 祟道神社だ。大きな三本のムクロジの木、そして、崩れかけた鳥居が印象的なお社で、創建年代は不詳だ。

祭神は祟道天皇。いぶかしく思われる方もいるだろう。実際には存在しなかった天皇だ。 いやそれでは正確さに欠ける。実在した人物をさすのだが、その人物は天皇として在位したことはない。死後にその天皇位を追尊されたのだ。生存中の名は早良(サワラ)皇子。平安遷都を強行したあの桓武天皇の弟だ。この二人の父は光仁天皇、母親は高野新笠、渡来系氏族の女性だ。長く続いた天武系の皇統が途絶え、その流れは天智天皇の裔へと再び流れはじめた。 志貴皇子の皇子白壁王に白羽の矢が立ったのだ。光仁天皇だ。それまで皇位にほど遠かった皇子・・・・山部皇子が皇太子となる。そして、781年、光仁天皇より譲位され皇位につく。そして弟、早良皇子が皇太子となる。784年、桓武天皇は74年間都であり続けた平城京から長岡京へと遷都を実行した。
そして事件は起こった。藤原種継暗殺事件だ。詳細は省略するが、ここで罪に問われた早良皇子は抗議の断食を行う。そして・・・・はかなくなった。

その後、凶事が都に続く。人々はそこに早良皇子の怨霊の存在を見た。その祟りを恐れた桓武天皇は、祟り神となった我が弟、早良皇子を鎮めんがため、様々な試みをする。 崇道追尊がその一つだ。しかし、祟りは止まない。あとは、神として祀る・・・・ それが崇道神社だ。

複数存在するこの神社の中でも特に有名なのは京都市左京区上高野にあるそれだ。平安京の鬼門の方角に配され、堅く鬼門封じされている。この京都の崇道神社は古く高野神社とも呼ばれていた。母親高野新笠に由来するのかも知れない。いずれにしろ、なぜそこにその社があるのか理由は明白だ。しかし、葛城の山の麓のこの場所になぜこの社があるのか、 全ては不明としか言いようがない。

いったい・・・・なぜこんな場所に・・・・ 疑問は深まる。

けれども、この葛城の古い道を歩いて行くとこんな疑問にはしばしば出会う。 そんな道がこの葛城の道なのだ・・・・

鴨山口神社

祟道神社を後にさらに西へ向かう。 道はまだ上りだ。 やや太く,、車通りの多い道を横切る。これが葛城古道であるはずがない。香芝市から葛城市、御所市を抜け五條市へと大和盆地南西部の山並みの麓を抜ける山麓線と呼ばれる道だ。葛城古道はこの新しい道を上に、そして下にとうねりながら南へと進む。そして、これまで歩いてきた道とその道との交差する辺りが櫛羅(クジラ)大湊だ。ちょいと変わった地名だが、近くにある名所「櫛羅の滝」からきた地名だ。なんでもこの滝を見た弘法大師が天竺にあるという「クジラの滝」とよく似ていることからそう命名されたという。 弘法大師が天竺まで足を運んだなんて話は聞いたことがない・・・・

・・・待てよ、 弘法大師が唐に渡って最初に師事したのが醴泉寺には天竺度僧、般若三蔵が起居していた。 あるいは、そこで聞いた話なのかもしれない。

いずれにしろ天竺の「クジラの滝」ってのがよく分からない。

さて、問題はその櫛羅の交差点からどう進むべきかだ。本来なら、そのまま信号を渡り、葛城山に向かってまっすぐ西進すればよい。けれどもこの交差点から南を見渡すとちょっと気になる木立が見える。気になったまま次に進むことは何か気がひける。そこに何があるのか確かめておこう。歩くこと2~3分。

鴨山口神社だ。境内の案内書きには

葛城山麓の扇状地、櫛羅大湊に位置する 本社は、古くから朝廷に皇居の用材を献上する 山口祭を司った由緒深い神社であります。 祭神は、大山祇(オホヤマツミ)神、大日霊貴(オホヒルメムチ)命、御霊(ゴリョウ)大神、 天御中主(アメノミナカヌシ)尊をお祀りしています。「延喜式神名帳」には山口社は十四社あるが、 その内葛上郡の鴨山口神社が本社であると されており、即ち式内の大社として格式の 高い神社であります。 本殿は、春日造桧皮葺(八尺に七尺)であり、拝殿は、 瓦葺(五間に二間)であり、本殿に安置され ている大日霊貴命坐像、御霊大神坐像は 国の重要文化財に指定されています。

とある。 葛城山の山口にあり、その山にての木々を伐採に関わる守護神として祀られているのだろうか。いずれにしても主祭神の大山祇神は全国の山を統括する神だ。これから山には入ろうとするものはこの社に手を合わせずにはいられない

九品寺

鴨山口神社を後にする。 山麓線、正確には県道30号線を南に進むこと700m。いや、800mか。ここはあくまでも今出来の自動車道。葛城古道では決してない。現代風の、どちらかと言えば歩くには味気のない道だが、西に聳える葛城の山並み、東、眼下に広がる大和盆地の眺望は素晴らしい。そんな道を南に10分も行けば、道の右側に御所市コミュニテイバスの停留所「楢原」がある。その横に「戒那山九品寺」との石柱が・・・・ そこからほんの僅かに西に斜面を登るだけで九品寺の山門に辿り着く。この寺はあの大仏造営に力を尽くした行基さんが聖武天皇の勅を受け建立された寺だ。その後、この地を訪れた弘法大師が再興させたという。

またこの周辺、鎌倉時代から室町時代にかけて猶原氏という豪族が支配していた。鎌倉末期には、春日若宮祭で流鏑馬を奉納するほど有力な氏族だ。この一族の平城は、現在の国道24号線沿いにある鴨都波神社の西約1kmにあったが、もう一つ平城から北東へ2kmほど離れた標高320mの葛城山の東麓の丘の上に山城も築いていた。西側を三重の堀で囲み、北・東・南の三方は50mの空堀が築かれたていたらしいが、南北朝時代、後醍醐天皇の建武親政が失敗に終わるや、いち早く南朝方につき、活躍していたと聞くが、史書にはその具体的な活動を示す資料が乏しい。

そんな一族の菩提寺で、この寺はあった。

どちらかと言えば小ぶりの、しかしながら充分に端正な山門をくぐると、そこには見事に整備された境内がある。石段を上って本堂へ。本堂には木造の阿弥陀如来座像がいらっしゃる。高さ123cmの仏像は平安後期の作品。国の重要文化財だ。そのお姿はあくまでも優しく、円満で、なおかつ侵しがたい気品を漂わせている。本堂の左手にある鐘楼の梵鐘は慶弔15年(1610)の銘が付されている。他にも楢原氏の念持仏だったとされる秘仏の観世音菩薩や地蔵菩薩も見物ではあるが、この寺の名を世に知らしめているものは、本堂の裏山に並べられた無数の石仏である。いずれもその長い歳月を感じさせるかのように風化し、そして苔むしている。200年ほど前に境内の竹藪を掘り起こした際に、土中で見つけられたものらしく、それを一つ一つ掘り出しては今見るような形に配置したものだそうだ。寺の伝えによると、南北朝の頃、楢原城の兵士たちが自分の身代わりとして制作させ、この寺に収めたものだという。

千体地蔵とは言っても、実際にはその倍に近い数の石仏がそこにはある。驚くべきはその一つ一つが例の赤いよだれかけをつけてもらっていることだ。ちょっと考えてもその作業量の膨大さは窺い知れる。敬服に価する・・・・というよりも、数百年前に戦いに命を落とした名もない兵士達に注がれるこの地域の人々の心に優しさに胸が打たれる。一つ一つのをつぶさに見て行けば、すべての石仏の顔が違う。 大きさも様々だ。 いつまで見ていても飽きが来ない。

一言主神社

いちごんさん・・・・

正式には一言主(ヒトコトヌシ)神社という。地元の人たちは親しみを込めて一言さん・・・・いちごんさんと呼んでいる。この神社へは、九品寺から県道30号線・・・・山麓線に戻り、再び南へ600m・・・・またバス停がある。そのバス停から再び西へと入って行く。 そんなに長い距離ではない。ほどなく境内へと辿り着く。この辺り一帯は古代豪族の葛城氏の本拠地で、綏靖天皇の皇居、葛城高丘(タカオカ)宮の伝承地でもある。一言主は古事記・日本書紀に出てくる神で「悪事(マガゴト)も一言、善事(ヨキコト)も一言、言い離(ハナ)つ神」という神で、願い事を一言のみ叶えてくれると信仰を集めている。

この神について、古事記には次のような話が残っている。

ある日雄略天皇は大勢を引き連れて鹿狩りに出かけた。すると、向こうから自分たちと全く同じ格好をした一行がやってくる。天皇は敵意を感じ、家来達に矢をつがえさせ戦闘の準備をする。すると、向こうの一行も同じように弓をこちらに向けてかまえる。天皇は相手の名を問うた。戦いの前に互いに名のり合うのはこの時代にも同じであった。そしてその相手は答える。
「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」 と。
天皇は恐れ入り、武具の全て、家来の着ている衣を脱がせて一言主神に差し上げた。一言主神はそれを受け取り、その礼として天皇の一行を天皇の宮のあった初瀬の手前まで見送った。

この話は古事記に遅れること10数年の後に成立した日本書紀にも収録されている。ただし後半がちょっと違う。こちらの方は、名乗り合った天皇と一言主の神が一緒に鹿狩りを楽しむという筋立てになっている。

この二つの説話がいったいどんなことを意味しているのか、考えれば考えるほど興味が深まってくるが、そこに入り込んでしまうと、いくら文字を費やしても終わらなくなってしまう。ここはちょいと我慢をして、この神社の様子をお伝えしよう。

山麓線(県道30号線)を西にはずれて、一言主神社へと向かう。もちろん九品寺からの道は、いったん山麓線に戻らずとも山あいの道を歩いても一言主神社には辿り着ける。葛城古道と言うからには、そちらの方がアスファルトで固められた山麓線よりは風情を味わえると思う。

こぢんまりとした鳥居があった、参道が始まる。田圃道の中、参道は続く。そのつきあたりは、ちょいと骨の折れる石段だ。これを上れば、拝殿である。その手前にある祓戸の社で身の汚れを落としておこう。それが神前に出る最低限のマナーだ。

この一言主の神は・・・一言しか我々の願いを聞いては下さらぬ。 一言も余計なことを口にしてはならぬ。拝殿の前で、二礼をし、柏手を打つ。そして手を合わせ初めて願い事を口にする。そして再び一礼。

さて、境内に目を移そう。 早速目に見えるのは巨大な銀杏の木。「乳銀杏」と呼ばれている。樹齢1200年、幹周3,85m、樹高25m。その威容は周囲を威圧する。「乳銀杏」の名は地上2mほどの処にある「気根」と言われる内と外の空気を交換する”乳のような突起物”に由来する。季節になれば、その美しい紅葉は我々の目を楽しませる。

この神社の見所はこの銀杏だけではない。同じく境内にある「土蜘蛛塚」だ。 「土蜘蛛」とは、神武天皇が大和に進入してきた際に成敗の対象となった先住民族。神武天皇はその復活を恐れ、この小さな石塚に彼らの霊を封じ込めたという。古事記の中でも、伝説に過ぎないと思われている部分の痕跡が、この地に多く残っている。

極楽寺

極楽寺が見えてくる。古地名の吐田(ハンダ)を冠して吐田の極楽寺という方が地元では通りが良い。

この寺が開かれたのは1000年以上前の天暦5年(951)。奈良は興福寺の座主を務め、その学徳に秀でたことで広く知られた一和上人は、その名利を嫌い、一人心静かに仏道に精進できる地を求めていた。ある時、金剛山の東に毎夜光を放つ場所があり、怪訝に思った上人がその場所を訪れると、そこから阿弥陀仏の頭がでてきた。上人はこここそが自らの仏道修行にふさわしき地と草庵を結んだ。そして、現れた仏頭を本尊として法眼院となづけた。上人はこの地で仏道に精進し、極楽の様相を感じるなかに往生をしたという。

しかしながら、私の興味の中心はそこにあるのではない。実は2005年、この寺の近辺で、古墳時代史を揺るがすような発見があった。極楽寺ヒビキ遺跡での発見である。この遺跡は5世紀代に大王(天皇)に並ぶ権力を誇った葛城氏の本拠地とされる奈良県御所市の南郷遺跡群の一部であるが、ここで5世紀前半の大型建物跡が見つかったのだ。床面積は225平方メートルと5世紀代で最大級。同遺跡群や奈良盆地を一望できる尾根上に位置し、敷地の周囲には濠(ホリ)を巡らせてある。

この遺跡については橿原考古学研究所は「葛城氏の王が祭儀や政務を行った中枢施設」との考えを示している。宜われる考えだ。当時の報道によれば、敷地内の尾根突端では物見やぐららしい建物跡も確認。南側には渡り堤があり、塀が途切れた部分は門があったらしい。濠の中は立石が置いてあり、後の「庭園」につながる可能性もある。建物や塀はほとんどが焼失。存続期間は20~30年とみられ、遺物の出土が少なく日常生活の場の可能性は低いという。

毎日新聞(2005年2月21日)所載の橿原考古学研究所の考えとして「一帯には王の住まいなどの施設群があったと想定され、今回の建物は『政治センター』の行政管理部門ではないか」と述べている。。

葛城氏は、古墳時代の豪族で、仁徳天皇の皇后・磐之媛(イハノヒメ)を出すなど、大和政権で大王の外戚(ガイセキ)として権勢を誇った一族である。日本書紀によれば、この一族の磐之媛(イハノヒメ)が仁徳天皇の皇后になり、履中(リチュウ)、反正(ハンゼイ)、允恭(インギョウ)の三天皇を産んだとも言われ、仁徳から仁賢まで9代の天皇のうち8人が葛城氏出身者を妃や母としている。こうやって天皇(大王)家との深い結びつきで政治基盤を固めていった葛城氏であったが、允恭天皇の死後の王朝内の対立に巻き込まれ、当時皇子であった、後の雄略天皇の攻撃にあい、この一族の勢力は大幅に衰えた。

このたび発掘された遺跡には焼き討ちにあったと思われるような火災痕もあり、一連の日本書紀の記録を裏付けるような結果ともなった。この一族については語るべきことは多い。しかしながら、この場所にいつまでも留まっているわけにはいかない。まだ先がある。次へ急ごう。 ここからがこの旅のクライマックスだ。

高天の里へ

極楽寺を後にした私は山麓線(県道30号線)を南へと下る。なあに、そんなに長いこと南に進むわけではない。600mほど進むと山手へと登る道の入り口の看板に「神話の里・高天ケ原」と書いてある。この看板にしたがって山道へと入るのだ。坂道を4~500m上って行った先に、うっそうとした木立が見えてくる。もし、貴方が歩いてここまできたならば、そして少しでも古代人の息吹を感じたいと思うのならば、ここで車道から離れ、道の左手にある徒歩道へと入るのも一興である。若干の近代的整備はなされているが、太古の道に迷い込んだのではないか・・・・というような錯覚に陥ったような気持ちになれる事はうけあいだ。そんな森の中の道が、そこからは続いている。

ただし、これから向かうべき地は、今回の旅の中で、もっとも高い標高に位置する。 少々の覚悟は必要だ。 ・・・・私は・・・・もちろん車で行く。

快適に森の中を車は進む。これもまた、4~500m。急に視界が広がる。金剛山と、今、抜けたばかりの森との間に隠れ里のような集落が見えてくる。静かな、そして穏やかな時間がそこには流れている。いったいどれだけの昔から人々はここにすんでいるのだろう、そんな思いにさせてくれるこの山里が「高天(タカマ)」だ。

「高天」・・・・?

この字面から思い当たる方もおられるだろう。 そう、ここはあの古事記神話の中で語られた多くの天つ神達がの住まい、そして天照大神が治めたまう地「高天原(タカアマハラ)」なのだ。

もちろんそれは伝承に過ぎない。 古来「高天原」は天上の地と考えられていた。殊に戦前の皇国史観においては天上の神々とのつながりを説くことで、天皇の権威を揺るがせないものしようとのむきも多かった。しかしながら、これを地上のどこかの場所に比定しようとの考えが無かったわけでもない。事実、京都にあった朝廷は江戸時代初期まで、この葛城の高天を「高天原」跡だと考えていたらしい。他にも、宮崎は高千穂、熊本は蘇陽、蒜山高原を「高天原」跡だと考える説もある。

まあ、朝廷が江戸の初期までここだと考えていた以上、この葛城の高天がもっとも由緒正しい「高天原」伝承地ということになろうか。

高天彦神社

この高天の里において私が目指すのは「高天彦神社」。森を抜けるとすぐに左へと進む。200m程進んだ場所にある駐車場に車を止める。駐車場から参道はすぐだ。もう幾年過ぎたのか考えるのもおっくうになるほどの齢を過ごした巨大な杉の並木道がそこにある。道はなんの整備もされておらず歩きにくい。50mほどでその境内だ。小さな古びた社殿がそこにある。何もかもが苔に覆われている。その苔の厚みが、この社の上を通り過ぎた歴史の厚みと一致する。そしてその青々とした苔が、一帯に社を取り巻く鬱蒼とした森ともあいまって、何ともいえぬ清浄な霊気が漂わせている。

背後には錐形の美しい白雲嶽・・・・この社の御神体となる。そしてその背後には金剛山が、その威容を猛々しく示している。

この神社、祭神は高御産巣日神(タカミムスビノカミ)。古事記の処伝によれば天地開闢のとき高天原に天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)の次に現れた神だ。その神名には生産・生成を意味する語「生す(ムス)」と、霊的な人知を超えた不思議な力を意味する語「霊(ヒ)」の二語が内包されており、あらゆるものの生成にかかわる神として考えられていたことが窺がわれる。古事記神話の中では天照大神と形影相伴うような形で登場することが多く、至上神である天照大神のもと、神々を集わせ会議を開いたり、命令を発したりする神として描かれている。そして、何よりもかつてこの一帯に勢力基盤を置いた葛城氏の祖神でもある。

今はすっかりとさびてしまっって宮司も配されず、社務所もないこの社ではあるが、当然のことながらその歴史は古く、その神社としての位置づけは高い。神社の来歴などを記す延喜式神名帳にはもっとも格式の高い名神大社として扱われている。

前回にも記したように、三輪王朝・・・雄略天皇によって滅ぼされた葛城氏ではあったが、その斎き祀る神は後の大和盆地の反対側・・・三輪山周辺に根ざした王権にも大切にされていたと見える。

いずれにせよそれだけ格式の高い神社であるならば、加えて、その祭神が高御産巣日神であるならばその霊験はすぐれて高いに違いない。せっかくここまで足を運んだのだ。 参拝をせずして変えるわけには行かぬ。 二礼二拍手一礼の正式な参拝をすませた後、私は次の目的地に向かった。

高鴨神社

葛城古道の旅もそろそろ終わりに近づいてきた。 高天彦神社への参拝をすませたならば、次は最終目的地、高鴨神社だ。高天の隠れ里までの険しい坂道を下り、再び山麓線へ戻る。が、ここで山麓線に戻ってしまってはいけない。山麓線を突っ切って、もう200m。西北窪の集落へとは入り、道が突き当たるまで進む。そこで右だ。そこからはちょっと長いし、道も大きく曲がったりしているが気にしてはいけない。そう、1kmと少し進めばよい。

こんもりとした木立が見えてくる。道はこの木立に添うようにして、初めに見えていた場所の反対側へと回り込む。そうすれば私たちは赤く塗られた鳥居に辿り着くことになる。そこから見えるまっすぐな、良く整備された参道の奧、拝殿へと続く石段が見える。あそこまでは80mほどであろうか。 鳥居をくぐってすぐに目にはいるのはこれもまた赤く塗られた小さな社。人の背丈ほどもない。祓戸神社だ。我々人間は浮き世の中で知らず知らずのうちに様々な汚れを身につけてしまっている。そんな状態のままで神の前に出るわけにはいかない。ましてやこれから御前に出ようという神のその名は味耜高彦根命(アヂスキタカヒコネノミコト)、別名、迦毛大御神(カモノオオミカミ)。古事記において初めから大御神の尊称で語られているのは、他に天照大御神しかいない。そんな神様がなぜこんなひなびた道の果てに・・・なんて思ってしまうが、その事は今は問わない。

とにかく祓戸の神に身の汚れを祓ってもらわねばならない。ついでにその先にある、手水場でさらに身を清める。手水場の背後にある池が何とも言えぬ雰囲気を醸し出している。神前に出るための全ての儀式は済んだ。

すっかりと祓い清めた身体と精神で、いよいよ本殿へと向かう。そう長くはない参道であるが、清浄な気が漂う道を歩いていると、何かしら引き締まった気持ちになってくる。 本殿は石組みされた上の少し高い場所にある。3m程か? 石段を上ると、その正面には拝殿が・・・・ そして本殿はその奥にある。天文十二年(1543)再建のこの建物は国指定の重要文化財だ。この重厚なお社にお鎮まりになっているのが祭神「味耜高彦根命」だ。 農耕の神とも、雷の神とも言われるこの神は、大国主神の子。別名は迦毛大御神。全国に広がる「カモ」と名付けられた全ての源がここにある。あの京都の「上賀茂神社」「下鴨神社」も事情は変わらない。

それに比すれば、今この社の持つ謙虚さは一体なぜなのか? 伊勢神宮の持つような広大な敷地をこの神社は持たない。出雲大社のような壮大な建造物をこの神社は持たない。悪く言えば、そこいらにある神社の、ちょいと立派な、と言えるぐらいに過ぎないのが、この高鴨神社だ。

そこにはこの神社を奉齋していた「鴨氏」、そしてその後を受け継いだ「葛城氏」の辿った運命があった。 この両「氏」の概要については、ここで多く語ることは出来ない。それを語る分だけの知識を私は持ち合わせてはいないからだ。

葛城古道についてこうやって書き始めた以上、ここは避けられないと、私もちょっと勉強をはじめた。 けれども、そこに繰り広げられている考えは、それこそ百花繚乱。 門外漢の私にどうする術もない。

さて、私の葛城古道の旅は間もなく終わろうとしている。 車で来ている私はこのまま家へと向かう。歩いてここまでお付き合い願った方々は、もう少しだ。もう少し歩いて国道24号線に辿り着けばバス停がある。 「風の森」というちょいとかっこのいいバス停があなたを待っている。