被災の里へ

あの日からもう半年が過ぎようとしている。

あの日とは・・・そう、私の故郷が、そして東北の東海岸の町々が暗く、とてつもなく冷たい波濤に飲み込まれたその日である。まだ仕事の場にあった私は、激しい揺れが我が郷里を襲ったと聞いたとき、それでもまだたかをくくっていた。地震多発地帯であるこの地域に育ち、それまでにいくつもの地震を経験し、さらには1978年の宮城県沖地震を経験し、どの程度の揺れがあれば、どの程度の被害があるのかある程度察しがついていたからである。

が、数十分後、その浅薄な予想はテレビの画面が伝えるその映像によって見事に覆された。

もう、あの日のことについて言葉を費やすことはやめにしよう。何も私がここでそんなことをしなくとも、あの日、そしてそれからの東北の地においての悲哀は様々なメディアによって充分すぎるほど伝えられている(そのすべてが正鵠を得ているとは言い難いが・・・)。

・・・帰らねば・・・

幾度も思った。けれども

・・・自分には何ができるのか?・・・

することなど山ほどあったはずだ。なのに私は何度も自分に向かって反問した。

・・・自分にはなにができるのか?・・・

と。

そして、半年もたったある日、その答えは何気なくそこにあることに気が付いた。「見ておくこと」。そしてそれを心の片隅に深々と焼き付けておくことが、今、自分のなすべきことなのだと。

実際に郷里を訪れてその現状を目にすれば、もはや私は「ふるさと」の喪失を認めざるを得ない。あれは夢なのだ・・・現実ではない・・・ただの映像による作り事なのだと信じたがっている私の中の臆病な私を欺くことはもうできなくなる。そうすれば私は完全に自分をはぐくみ育てた「ふるさと」を完全に喪失してしまったことになる。私はそれを避けたかった。たとえそれがまやかしのものであれ、心のどこかに「ふるさと」は温存しておきたかった。

けれども、あれからの半年という時間がやっと私に現実と直視する勇気を与えてくれた(ここでいう時間とは単なる時の流れを指すのではなく、その時間内における私を取り囲む人々の私に対しての働きかけを含んだ語である)。たぶん・・・いや、絶対に遅きに失した「気づき」であった。が、気づいた以上、行動しなければならない。私はさっそく帰郷の準備に取り掛かった。被災の人々の労苦の日に比べれば、ほんのわずかな時間に過ぎない。9月4日、5日の二日間。今の私に与えられた時間であった。

そして9月4日朝、心配していた台風12号日本海には抜けていたが、風いまだ強く、雨はまだ降り続いていた。前々日に出された大雨警報は継続中、飛行機は飛ぶのか・・・そんな不安もあったが、どうやら飛んでくれそうだ。

私は空港に向かった。

9月4日、大阪伊丹発のJAL仙台便は、台風による雨が激しく降りしきる中、鋭いジェットの音とともに離陸した。1時間と少しで私は宮城の地に降り立つ。途中、機体は激しく揺れ続けた。その頃、日本海に抜けたばかりの台風12号に向かっての強い気流のせいだ。ほんのわずかの時間だけシートベルト着用のサインは消えたが、それはほんの数分こと。頭上のこのサインは、フライト中のほとんどの時間灯り続けた。

あまりの揺れに備え付けの雑誌に目を通す気にもなれない。ボンバルディアのあまり大きくない機体の揺れは、手元の雑誌の文字に目をやること拒み続けていた。仕方なしに窓の外に目をやる。これもまたほんのわずかな時間を除けば、私の地上への視界は台風による分厚い雲によって遮り続けられた。

ただ・・・本当に当たり前のことではあるが・・・とある事実に私の心がわずかに慰められた。地上から見れば、分厚くどす暗くさえ見えたこの日の雲ではあったが、いざその上空に出てみれば青空の下、陽光にさらされて純白に輝いていた。その美しさには目を見張るものがあった。理屈ではそうあることは余りに当然の事柄ではあるが、私のように滅多に飛行機に乗る機会のない人間にとって、こういった発見は新鮮な驚きであり、そしてそれはこれから余りうれしくもないものを見に行こうとしている私には一種の救いのように思えたのである。

今、自分のいる地点から見れば、どこまで続くか分からないどす黒い雲であってもいつかはそこを突き抜けることができる。そしてそこに待っているのは紺碧に輝く空とまばゆいばかりの純白の雲海なのだ・・・と。

・・・かくも、清澄な静寂が・・・そこにはあった。

やがて機体は激しい揺れとともに降下し始める。再び暗い雲の中に入る。仙台が近づいてきたのだ。見慣れた阿武隈の流れの緩やかな曲線が目に入ってきた・・・と、ともにかつて海岸線に優美に続いた松林の、むごたらしくも無残な姿も・・・

着陸後、機体は静かに滑走路からターミナルへと向かう。そこにはかつて映像で見た悲惨は微塵もない。けれども、私は再び遙かに見える海岸線の松林に再び目をやった時、見えたものは・・・数本の松がまばらに生えた姿・・・あの日の冷たい水流を健気にも耐え抜いた数本が見えた。

 

空港を出て、かねて予約していたレンタカーを受け取りに行く。おそらくはそこも津波の被害にあったのであろう。立ち並ぶレンタカーショップはどれもが粗末な仮店舗ばかり。窮屈な狭い事務所で幾人もの客がその手続きをしていた。私の順番だ。通常通りの手続きの後、店員は私に近辺のガソリンスタンドの地図を渡す。給油についての説明だ。手作りの地図に示された十数軒のガソリンスタンドのうち、空港にほど近いいくつかのガソリンスタンドは赤く塗りつぶされていた。

「ここは今、営業していませんので車の返却の際の給油は国道4号線まで言ってもらわなければなりません。」

店員の説明を聞いて、そんな当たり前の事実にさえ気がつかずにいた自分が恥ずかしく思えた。映像で我々の目に入ったのは、空港の敷地内をいとも簡単に流されてゆく旅客機の姿と自動車たちの姿だけであった。けれども考えてみれば、それと同じ状況は空港の周辺に・・・いや、被災の地のあちらこちらに繰り広げられていたのだ。

マスメディアからの情報はより刺激的なものが中心だ。あるいはたまたまそこにカメラを回す人間がいたという奇跡的な偶然によって撮影された事柄しか我々の目には入ってこない。けれども、映像にはならなかった数々の悲惨は、我々が映像で目にした悲惨の数の数万倍に及ぶのだ。

私は一人、自らの想像力の乏しさに恥じ入っていた。

さて、車に乗り込んだ私は早速東松島へと向かう。9月4日・・・私の81になる父の誕生日だ。兄夫婦がその祝いをかねて昼食会を催すという。私もそのメンバーの一人に数えられているのだ。待たせてはいけない。かなり以前にできた東北縦貫自動車道とは別に、より海沿いに新しく北へと延びる高速道路が、私が郷里を離れた後にできていた。かつては2時間以上もかかったかのように思える道のりは、今は1時間ほどで済ますことができる。仙台東部道路だ。この道は高架のそれではなくうずたかく、土を盛り上げた構造になっている。それが津波を食い止めていた部分もあると聞いているが、これはあらかじめそのことを予想しての構造であったと聞く。

空港から北に向かう私にとって海岸線は右手の方向にあって、二重に遮るガードレールのせいで、津波に襲われたであろう我が郷里の大地は途切れ途切れにしか目に入ってこない。被災の状況は極めて瞬間的にしか私の目には入ってこない。

そして道は海岸線から離れ内陸に入り込んでゆく。

・・・もう1時間は車を走らせたであろうか。東松島市・・・私の目指す矢本の地が近づいてきた。映像でご覧になった方も多いとは思うが、津波に襲われ一時はその機能を失っていた自衛隊の松島航空基地のある町だ。

道はいつの間にか三陸自動車道となり、今、私はその無料区間を走っている。鳴瀬奥松島のICを過ぎる。ここがわが故郷、東松島市野蒜に最も近いICだ。が、今日はその一つ先にある矢本ICで降りなければならない。父と兄夫婦が住んでいるのはそちらの方だからだ。先に述べたように今日9月4日は父の誕生日。その祝いの食事会が兄夫婦の避難先のアパートの近くの小料理屋で予定されている。

生まれ育った場所が今どうなっているか・・・それは早く知りたい。けれども、父や兄夫婦がどんな様子なのか・・・そっちの方が、もっと知りたい。早く顔を見たい。

ICから約束の場所へと向かう。兄から聞いた店の名は私の記憶にはないものであったが、大体の場所は分かっているつもりだったが、なかなか見つからない。無理もない・・・この町をうろついていたのは今から30年は前のことだ。町並みは津波のそれではなくとも変化しているし、私の記憶だって定かではない。それにしても、このあたりは建物がそれほど損傷しているものが少ない。今、車を走らせている辺りは確か水につかったあたりのはずなのだが・・・水流の強さにも地域によってムラがあったのだろうか・・・そんなことを思いながら、車を走らせているとやっと兄が指示をした店の名を書いた看板が見えた。

車を止めて早速店の中に入る。店の人の指示に従って、歩いて行くと締め切ってあるふすまの向こうから懐かしい声が聞こえてくる。どうやら元気なようだ。ふすまを開ける。一番奥に父、そしてその隣に叔母。こちら側に兄夫婦が座っている。私は兄の指示に従って父の向かいに座る。みんな明るい顔で私を迎えてくれる。そこには被災の暗さは微塵も読み取れない。無論これまでの苦労は並大抵のものではなかったはずだ。けれどもその陰りはどこにもない。私を気遣ってのこともあろうが、私はそこに兄たちの強さを見た。

食卓に目を移す。目についたのは中央の舟盛だ。

本マグロ・イカ・タコ・サーモン・ウニ・サザエ・クジラ・ブドウエビ・・・・

食欲をそそられたのはもちろんのことだが、それよりも何も私には、この地が、もうすでにかような豊かな食膳をもうけることができるほど豊富に物資が出回っていること・・・私には何よりそれがうれしかった。ただ・・・車を運転しなければならないため、ちょいと一杯というわけにはいかなかったのは残念だったが・・・。

久闊を叙し、互いの無事を祝う。どのような会話がなされたか・・・それは、大方ご想像の通りだ。ただ一つ印象に残ったのは、行政による復興に向けた説明会の様子。叔母たちの言葉によれば、仙台のような都市部では行政に向けて、かなり厳しい言葉もはかれていた様子であるが、この東松島辺りではそのような言葉は聞かれなかったとのこと。

「この辺りの人はみんなおとなしいんだ・・・」

とは叔母の言葉。私はその様子が目に見えるような思いで聞いていた。なぜなら・・・私も、そんなつつましい人々と一緒に生きていた人間だからだ。そのことの良し悪しは私にはわからない。けれども、私の生まれ育った地の人々はこんな時声高に他者を責めたりはしない人々であるということは私には身に染みてわかっていた。それがおそらくは東北の人々の大方の心性なのだ。

「仮設住宅にいたら、嫁を迎えられない。」(正確には「仮設さ、いだら嫁ごばもらわれねえべ」)。

というのがせいぜいの抗議であったらしい。

食事が終わり、墓参りに行くこととなった。墓は、今や無人の地になった我が郷里、野蒜にある。店を出て、国道45号を西に向かう。矢本から野蒜の手前には宮城を東西に流れる鳴瀬川がある。橋を渡り、川沿いに海に向かえばほどなく目的地にたどり着くはずだ。

・・・が、家並みは全く見えてこない。

写真中央の道の両脇には家が立ち並び、500~600人の人々がここでは暮らしていた。道の奥にまばらな松林が見えるが、その先が海だ。かつてこの松林は立ち並ぶ家々にさえぎられて、この場所から見えることがなかった。

そして墓地。

すべてが薙ぎ払われ、ご覧のありさまだ。幾分、整備されたものも見受けられるが、それはこの盆に向けて、残された家族がはからったもの・・・中には…というよりほとんどが、石塔が流され、その下に眠っていたはずのそれぞれの家の先祖の遺骨が・・・やはり流され、骨堂の中は見事に空っぽになってしまっている。

我が家のそれは・・・骨堂の蓋がコンクリートで固められていたため流出することなく済んだが、その上にあったはずの石塔・五輪塔・法名碑はいずこへか流されてしまい見つからないという。

あの日、この場所を襲った水流の激しさが私にはうかがい知るよしもない。散乱する多くの石塔そ乱れからわずかばかり想像できるのみであった。

さて、墓参りは済んだ。本来ならばこの後、この野蒜の地の様子をつぶさに見て回るはずであった。しかし、今、父が一緒にいる。齢80を越えた父に、その人生のほとんどを過ごしたこの野蒜の地の荒廃をすべて見せるのは、私たち兄弟にはどうにも憚られた。私にはまだ明日の午前中という時間がある。郷里の被災の様子を見て回るのは明日自分一人ですることにして、今日は兄の家へ向かうことにした。

 

兄の仮の宿りとなるアパートを後にして私は再び仙台を目指した。1時間と少しの道のりだ。飛行機と宿のセットになっている格安パックで帰郷だ。少々面倒くさいがやむを得ない。それに・・・東松島や近隣の石巻の周辺では、うまく宿が取れることは期待薄だ。やむを得ない。ただ、今晩の宿舎となるホテルは仙台の繁華街のど真ん中。駐車場を持たぬ宿ゆえ、できれば明るいうちに辿り着き駐車場を探しておきたい。

そう思って私は早めに兄のアパートを後にした。けれども、そこに私のしくじりが一つあった。私は長く大和に暮らしているゆえ、日没の時間の、その時差を、この時完全に失念していたのだ。私は大和ならば充分に日の入り前に仙台にたどり着けるであろう明るさのうちに東松島市矢本の町を後にしたのだが、車を走らせているうちに、あっという間に日は西に傾き、周囲の明るさは次第に失われていった。仙台についたころにはすでに黄昏も押し詰まったころ・・・

それでも何とかホテルの近くに駐車場を見つけることができ、無事にチェックイン。夕食の場を求め仙台の町に出る。ホテルのある場所は東一番町。仙台でも一番の商店街。すぐそばは東北でも有数の飲食街、国分町だ。夕食をとるに何不自由はない。かえってそれゆえ、どの店を選ぶべきか困ってしまうほどだ。

さんざん歩き回った末たどり着いたのが、とある居酒屋・・・「伊達屋敷」だったかな?・・・狭いくぐり戸を抜けて、細い通路の先にある広間は中央に囲炉裏がしつらえてあり、そのぐるりが板の間。そしてそこを取り囲むようにカウンターがコの字型にしつらえてあり、その奥には結構多くの数の個室がある。私は一人である故、そのカウンターの一つの角の席に自分の居場所を見つけた。

この店を探すため結構歩き回ったので、相当な具合、喉が渇いていた。まずはビールだ。あては・・・川エビのから揚げ。出てきたものを見ると私が小さいころ沼エビと呼んで、その湯がいたものを大根おろしとともに食べていたものだ。くるっと腰を曲げたそのエビの背筋はまっすぐに引き延ばしても3cmもないほどか?これを素揚げにして塩を振ったものが、ちょっとした小鉢に山盛り。酒を飲むとき、あまり多くの酒肴を必要としない私にとって、ゆうにビールを3本ほど飲める量だ。ビールで少々のどを潤した後、その川エビを一つつまみ口に入れる。カリカリの歯触りとともに、誰もがそれをエビだと認識しうるような風味が口中に広がる。そしてすぐにまた、ビール・・・・

喉の渇きさえ癒えれば、米どころの我が郷里のことだ。口にするべきは清酒である。メニューには幾種類もの宮城の清酒の名が並んでいる。まずはじめに頼んだのが「勝山」の純米。伊達家ご用達の銘酒だ。うまくないはずがない。

続いてたのんだのが「日高見」。石巻の銘酒だ。日本書紀に出てくる東国にあったとされる蝦夷の国の名にちなんでいる。が、ここで私はまたも今回の震災についての認識の浅はかさを思い知らされることになる。石巻は宮城県内でも最も被害のひどかった地域。この銘酒の蔵元も当然被災している。店員の「ここは今出荷をしていませんので・・・。」という一言に私は一人恥じ入ってしまった。

仕方がない・・・・私は同じ石巻の銘酒「墨廼江(スミノエ)」の純米を注文する。ここはあの震災の後も健在であることを、とある方のブログで知っていたのだ。いっしょに頼んだ酒肴がイカとタコの刺身。いずれも私の好物だ。ありふれた安価なものではあるが、私が郷里にいた頃もっとも食べる機会の多かった刺身である。そして・・・こんなありふれた何でもないような酒肴がたまらなくうまい。震災の後とはいえ、海の国、宮城だ。こういったものの一つ一つまでもが新鮮で上質だ。しかも・・・安い。そう小食ではない私なのだが、これまでの三つの酒肴でそろそろ腹は満ちてきた。

そして銘酒「墨廼江(スミノエ)」の残りをぐいとあけると、私は最後の一杯を注文した。無論・・・「浦霞」純米だ。味は・・・言うまでもない。

最後に卵かけご飯でしめだ。米は当然宮城産の「ひとめぼれ」。しかも絶妙な炊き具合だ。うまくないはずがない。そして、一杯のお茶をすすった後、私は店を後にした。

ホテルに帰りついたのはもう9時を回っていた。今日一日の疲れが出たのか、急に睡魔が私を襲う。いつもは宵っ張りで、日付の変わる直前まで起きているのだが今日はもういけない。明日も大分の距離を走らねばならぬ…と思い、私が眠りについたのは10時を回ってすぐの辺りだったかと記憶する。

 

昨夜早く眠りについた故、今日(9/5)の目覚めは、5時前だった。できるだけ早く再び東松島の野蒜に向かおうとは思うのだが、泊まったホテルの朝食は7時からだ。時間が来るまでもう一度眠りにつこうと思ったが、もう眠れない・・・仕方がない、散歩でもしようか・・・

ホテルから出る。東一番町だ。まだ6時前だから人っ子一人いない。昨夜のにぎわいが夢のようだ。

右も左もわからないまま道沿いに歩いてゆくと見事な並木道が見えてきた。

定禅寺通りだ。豊かな緑におおわれたこの通りは後の楽しみにとっておいて、ちょいとこの道の先にある公園へと向かう。

勾当台公園だ。確か小学校の5年生の時の遠足できた場所だ。その時の様子はよく覚えていないので、今と同じたたずまいだったのかどうかは分からないが、私たちはこの公園で思い思いにお弁当を食べた。奥に見える建物は確か・・・宮城県庁・・・だったはず・・・

宮城の誇る江戸期の名大関谷風だ。1778年の3月場所初日から1782年2月場所7日目まで、江戸本場所にて土つかずの63連勝。さらにその連勝を止めた一敗の後、43連勝を記録した。生涯勝率は9割4分9厘。生涯優勝20回以上(現在のように年に6場所もなかった)。

これだけの記録なのに、なぜ大関なのか・・・簡単なことだ。この時期関取の最高位は大関だったのだ。ただ1789年、吉田司家が考案した横綱制度においてはじめての横綱を許され、初代の横綱になったとも聞くが、地元でも大関谷風の方が通りが良かったように思う。

そして公園のほぼ中央には「平和」と題された銅像が・・・結構大きい。下の土台の白い円柱の部分だけでも私の背丈をゆうに越える。ちなみに私の背丈は185cmである。それにしても「平和」とは・・・町の中心となるこの公園のその中央に位置を占める銅像にこんな名を付けるなんて・・・我が故郷もなかなかやるなと思いながら公園を離れる。

いよいよ定禅寺通りだ。

この通りの見ものは、豊かに茂る並木もあるが、中央分離帯に設置された写真の如き彫刻達も忘れてはならない・・・そう、ここはこの定禅寺通りの中央分離帯。書くの如き散歩道になっていて、ところどころにこのような彫刻が配置されている。

この小道を歩いていると、朝の湿った空気にあいまって、体中がきれいになって行くのを実感する。それは、私がいつも散歩で大神神社に行ったとき感じる感覚とどこか違う・・・神威や霊威がもたらすそれではなく、ただこの町が持つ清潔さがもたらしてくれた感覚のように思えた。

さて、7時も近づいてきた・・・

ホテルに帰るとしよう・・・

なるべく早く朝食を済ませ、少しでも早く東松島へと向かいたい。

朝食後、チェックアウトを済ませた私はすぐさま我が郷里、東松島は野蒜の地へと車を走らせた。仙台の市内から東部道路、三陸自動車道と高速を乗り継ぎ奥松島のICで降りる。鳴瀬川の流れに従ってまっすぐ海岸線へと向かう。3km程の道のりだろうか。このあたりは鳴瀬川とその支流吉田川が、堤防一つを隔て、並行して流れている。この二つの河川にも3月11日の冷たい波濤は遡上し、川面を覆うほどの瓦礫が激しく打ち寄せたと聞く。今はその気配もなく、私がこの地に暮らしていた頃と微塵もかわりのなく静かに流れている。

海岸線から800m程のところで、この二つの川を隔てていた堤防が途切れ、流れは一つとなる。その堤防の下流部の100mほどが地震による沈下の故であろうか、水没し、湿地のようになっている。

あと少しで我が家のあった場所にたどり着く。

我が家のあった場所だ。ご覧の通り今はただの荒れ野と帰している。かつてあった住居の基礎が草の隙間から見えているが、それだけでは我が家の位置は特定しかねた。

夏野わけ行く、いにしへの継橋も川瀬におちたれば、げに駒の足音もせぬに、田畑は荒たきまゝにすさみて舊の道もわからず、ありつる人居もなし。(雨月物語・浅茅が宿)

とはまさにこの様を言うのであろうか・・・

道は瓦礫がすっかりと撤去され、昔あったそのままに海に向かって走っているが、その両脇の光景はまるで違う…こんな狭い道だったのか・・・というのが素直な印象だった。子供の頃、車2台がゆうに対向できるほどの広々とした道に思えていたが、今見ると車の対向はやっとぐらいの広さしかない。小学校に入る前は、近所の農家が飼っていた農耕馬がゆったりとした早さで、時々は糞を落としながら歩いていた道だ。舗装化されたのは小学校の低学年の頃だったかと思う。

そして、我が家からはこの道を挟んで、小さな広場があり、その広場の向こう側には大きな洞穴があった。戦時中には防空壕としても用いられていたらしい。そして、何の手がかりもなく我が家の位置を特定しようとしていた私はそのコンクリートで固められた洞穴の名残を見つけることができた。してみると、我が家のあった場所は・・・

上の写真はそうやって特定した場所の映像である。 私はこの場所で生まれ育った。すべての思い出のかけらはあの日、海の藻屑と消えた。

けれども、今は何も見えないこの場所に、えも言われぬ懐かしさを感じてしまったことも否定できない事実だ。

道をほんの2,3分北上する。豊かに流れる鳴瀬川の岸に立っているのはこのあたりの(新町と呼ばれていた)公民館である。海抜8mに盛り上げられた堤防のその上に建てられたこの公民館は、その立地自体が津波に備えてのものだった。

今から50年ほど前、この地をチリ地震津波が襲った。私が生まれたその年だ。地球の裏側からやってきたその恐怖を、今よりも貧弱だったわが町の堤防はなんとかしのぎ切った。けれどもその時の恐怖はこの地の人々に深く刻まれた。私がこの地に住んでいた頃、その恐怖は伝説のように語られていた。

そして築かれたのが、この海抜8mに立地する公民館だ。それが今はかくも無残な姿をさらしている。3月11日、この町に津波の襲来が伝えられたとき、この地の人々はみんなこの場所に集まった。建物の中に入ることができた人も入れずに外にいた人も不安におののきながらも、その海抜に安心していたと聞く。

・・・が、冷たい波濤はその安心を打ち砕き、避難所であったはずのこの公民館をかくも惨たらしい姿に変えた。多くの人々が波に飲み込まれ、その場から姿を消した。その人々がその先どうなったか・・・私は想像するに耐えない。

それでも・・・この避難所は一定数の人々を守りぬいた。避難所としての役割をある程度は果しえたのだ。私の叔父と叔母もその中にいた。 波はなかなか引いてはくれない。柱にしがみつき、我が叔父と叔母は東北の冬の海の冷たい水に数時間耐え抜いた。

今、穏やかな流れの岸に立ち、私はその恐怖と苦痛、そして絶望に思いをはせた。遠く聞こえる潮騒が台風12号の接近ゆえ、激しく耳を打つ。けれどもそんな現実の潮騒を打ち消すほどには、私の胸裏にその日の波濤の引き起こした轟音と叫喚とが響いて止まなかった。

その存在を頼りにして避難してきた人々の命のすべてを守りきることが出来なかった無念の思いを、惨たらしくさらしたその姿ににじませている避難所・・・公民館を私は後にした。平時の海面より8mの高さに築かれた堤防沿いに、鳴瀬川は海に向かい流れている。私は一人、この堤防の下の道を歩き始めた。そして、歩き始めてまだ50歩も数えないうちに私は茫々と生い茂った夏草の中に、懐かしさの残骸の姿を見つけることができた。


白髭神社の鳥居である。津波の威力により上の部分は押し流されてしまったらしいが、何とはなくそれがかつて鳥居であったことを主張する部分は残されていた。
今見れば、そんなには大きく見えない鳥居ではあるが、私がまだ子供であった頃にはとてつもなく巨大なものに見えていた。世のならいのごとく、下から石を投げ上げて、鳥居の上にそれがうまく乗れば願い事が叶う・・・そんな迷信をどこからか聞きつけて、懸命になって石を投げつけていた鳥居だ。今はいくら石を投げ上げたところで、その石が乗る場所はない。

懐かしさにかられ私はこの下をくぐり抜け、今はその姿をとどめぬ拝殿のあった場所に向かった。あとほんの数歩でその場所にたどり着こうとする場所の両脇に私は見慣れぬものを見た。

狛犬だ。記憶は定かではないが、この神社には狛犬はなかったような・・・いや、記憶違いでもっと大きく古びたそれが合ったような気もする・・・

とにかく、私の記憶する白髭神社には写真のような狛犬はなかったことは確かだ。見ての通り、御影石材に刻まれたその雄姿は未だ歴史の古びを感じさせない。おそらくは私が郷里を離れた後に寄進されたものであろう。そしてすべてが失われたこの新町の集落にあって、あの3月11日以降に寄進されたものだとは到底考えられないことも事実だ。してみれば・・・この小柄な2頭の神獣はあの暗く冷たい波濤の中、自らの使命を果たすべく、この場所に於いて踏ん張り抜いたのであろう。その健気さを思いやったとき私はこの神獣たちに手を合わせずにはいられなかった。

けれども・・・守られるべき神のおわしどころは・・・

その基礎の部分を残してものの見事にその姿が失われていた。猿田彦命・・・海の神、道開きの神のお住まいは跡形もなく流されてしまった。

かつてこの神社はこの新町の集落の子供たちの遊び場であった。私たちは誘い合ってここの境内で野球をしたものだ。あまり広くはない神庭ゆえに、白球は無礼にも神の社にぶつかることもしばしばで、所々にその跡が残っていた。

今はその面影さえうかがえない拝処の前に立ち、きっと今もなおこの場所におわし、人々が帰ってくることを・・・子供たちがその神庭で遊び戯れるであろうことを待ち続けている猿田彦命に手を合わせ、今更ながら私はそのときの非礼を詫びた。

そんな日が再びこの集落にやってくるのか・・・そんなふうに思いながら私は次の場所に向かうため車に戻り始めた。

白髭神社を後にした私は今はその機能を果たすべくもない、野蒜駅にと向かった。高校に入って電車による通学を始めた私は、毎朝この駅から高校のある石巻へと向かった。そして大和へとその居を移すとき、降りしきる春の雪の中、父が私を送ってくれたのもこの駅である。ホームには私のくるぶしを覆い隠すほどの、真っ白な雪が降り積もっていた・・・・1979年、4月1日のことである。

その頃の駅はまだ古くからのもので、木造のその駅舎にはベージュのペンキが塗られていた。屋根が何色であったかは記憶にない。かつて東北志摩と呼ばれたこの地は宮城県でも随一の海浜リゾートとして知られ、昭和の初期に、仙台からここまでの鉄路が引かれた。宮城電鉄・・・現在津波によって分断された仙石線の前進である。当時、東北の地では他所にその例を見ない電化路線であったと聞く。

今、眼前にあるのは私がこの地を離れてからの新造のもので、被災当時の映像から見れば、大分整備は加えられているようだ。が、駅は電車が走り、多くの人々が乗降してこそ、駅・・・仙石線が未だ仙台・高城間、矢本・石巻間しか走っていない今、この駅は取り残されたままになっている。加えて、もはや無人の地となった野蒜を避けて、もう少し内陸の地域に新たに鉄路を引こうとの計画が一部にある今、再びこの駅にかつての賑わいが戻ってくるのか・・・懐疑的な思いしか抱けないまま、それでもこの建物は少しでも早く駅として働きたがっているように見えた。

貞山堀を越えて、浜辺へと向かう。

橋を渡ればすぐに広大な、そして美しい松林が見えてくるはずだった。「余景の松原」とも呼ばれるその松林は、私たちの郷里の自慢の景物であった。そして、小学校へ、そして中学校へと通うその道はこの松林の中にあり、私たちの格好の遊び場であった。地面が砂地が主であることをいいことに落とし穴を掘ったり、松の木にロープをぶら下げてはターザンのまねごとなどをしていた。小学校の頃普通に歩けば40分で歩き終えるその道も、下校の際には2時間近くかかって母親にひどく怒られたこともしばしばだ。子供心を引きつける何かがこの松林にはあった。

それが今は・・・

何もない。奥の方に見える白々とした建物は私が卒業した中学校・・・鳴瀬第二中学校だ。3月11日、その波は轟音をあげて、それまで巻き込んだ建物の瓦礫もろともに、この校舎を貫いた。もはや学校としての機能を果たし得ないほどの惨憺たる状況であるという。私はそこに行ってその悲惨を確認するべきだったが、これまで余りの喪失を見てきた私の目はそれを拒んだ。

そしてそのまま浜辺へと出たのである。

波は、その頃すでに日本海に抜けていたはずの台風12号の名残で波立ち、激しく音を立てていた。まるで、見るべき悲惨を避けてこの場所に逃げ込んだ私の臆病を責めるかのように・・・そして、長くこの地を訪れて、その喪失を確認することを避け続けてきた私をなじるように・・・

・・・けれども・・・

ふと足元を見る。

それでもなお、故郷はわたしを受け入れてくれている・・・・実感した。

私がこの町で暮らしていた頃、この町の夏の終わりにはこの花がいつも咲いていた。この浅い黄色の花びらはこの町の人々に夏の終わりを教え続けていた。そして今、誰もいなくなったこの浜辺で、今も変わらずにこの浅い黄色は夏の終わりを告げ続けている。

年年歳歳花相似たり 

歳歳年年人同じからず

唐の詩人、劉希夷の詩の一節を思い出した私は、高校時代の3年間を過ごした石巻に向かうべく、車のキーを回した。

東松島市野蒜から私が高校時代を過ごした石巻まで車で3,40分。再び鳴瀬川をさかのぼり国道45号線に入る。途中、叔母の家族の経営する石材店を訪れる。途中、道の左にコンビニが見える。あの日の波はこのコンビニあたりまでを襲った。地震が発生し、津波の危険を知った兄はここより1㎞ほど海岸に近い自宅にいる父を車に乗せ避難していたとき津波に飲み込まれ、このコンビニまで流され、運よくその駐車場に打ち上げられる形になり、引き波に連れ去られることなく命を拾ったという。

叔母の事務所に着く。中に入るとやはりここで働く叔父の姿もあった。この叔父は9人兄弟の次男である父の一番下の弟で、被害の逢った地域に居を構えており、その自宅の一階はひどく破壊されたらしいが、その部分は補修することでなんとか住むことが可能だったらしく、昔と変わらぬ場所に今も住んでいる。叔母の出してくれたコーヒーを飲みながら、ひとしきりあの日のことを話したあと、叔父が近くの避難所に住む、私の母方の叔父夫婦の住む仮設住宅まで行くというので同行することにした。先日述べた鳴瀬川の河口近くにあった避難所・・・公民館で冷たい水につかりながら数時間を耐え抜いた、あの叔父夫婦だ。

叔父の車の後について私は車を内陸へ内陸へと走らせた。東松島市大塩。それが叔父夫婦の住む仮設住宅のある場所だ。小高い丘がいくつか続いたそのさきに、同じ形をした建物が無数に並んでいる。叔父夫婦の住む住宅もこの中にある。

車を止めた私はなんとか叔父の住む住宅を探し出し、その玄関前に立ち、叔父の名を呼んだ。力ない返事が聞こえ、叔父が出てきた。珍しいものを見るような目で、けれども叔父は優しく私を迎えてくれた。叔母は残念ながら出かけているという。

中に入った私はまず仏壇に向かう。真新しく新調されたその仏壇と、いくつかの位牌がなぜか胸にしみた。あの日の冷たい波濤はこんなものまでも押し流してしまったんだなと、改めて思い知らされた。ろうそくに火をつけ、数本の選考を立て、鈴を鳴らし手を合わせる。いつもこの叔父の家に来るたびに当たり前のように繰り返していた所作がこんな形で行わなければならないなどとあの日までは考えもつかなかったことだ。

叔父は冷蔵庫からペットボトルの一つを出し、私に勧めてくれた。冷たい水につかりながら思った事、跡形もなくなったその家が実は数年前増改築を済ませたばかりであること、大きな冷蔵庫を昨年の秋に買い換えたばかりであること・・・そして、奇跡的にも流されたはずのその家や土地の権利書や、その日身に着けることなく家に置いたままであった財布が見つけられたこと・・・叔父の話はさらに続く。

その日以降、体調崩し入院の必要があったにかかわらず、機能している病院が少なく危険な状態にあったこと・・・退院の後、妻(すなわち叔母)の実家に厄介になっていたものの、何も出来ぬまま世話にだけなっていることの息苦しさに仮設住宅への入居を決意したこと・・・・

マスメディアからのみではうかがい知れない避難生活を送る方々の何とも言えぬ苦労が、そこにはあった。

1時間ほどして私は叔父に別れを告げ、目的の石巻に向けて車を走らせ始めた。最初に向かったのはその市街地の中央に聳える(聳えるというほどの高さではないが)日和山だ。石巻の市街地には60mに満たないほどのこの山に尾根続きで、鰐(ワニ)山、羽黒山がならび、多くの住居が存している。それらの麓の一部の被害のみで、ほとんどが無傷で今もなお残っている。

日和山の頂にあるのが日和山神社(鹿島御児神社)。かつて、芭蕉もその弟子曾良と訪れた名称だ。この辺りは鎌倉時代、この辺り一帯を治領していた葛西氏の居城、石巻城のあった場所だ。

徳川幕府による体制がスタートした際、仙台藩を支配する伊達正宗は、幕府よりその居城を設置する場所を問われた。正宗は良好に恵まれた地にあるこの日和山に居を構えることを望んだが、他藩の話を聞くと、第一希望がそのまま認められることはなく、ほとんどが第3希望の場所に指定されていると聞いた。そこで一計を案じた正宗が仙台を第一希望、この日和山を第三希望で出したところ、第一希望が通ってしまった・・・というのが高校の頃の日本史の先生の話である。

今この場所には日和山神社を中心とした公園が設けられており、海側の眺望がすばらしい。私が今回石巻での最初の目的地にしたのも、ここからならば被災の状況が一目で鳥瞰できるだろうと思ったからだ。

ほんのわずかのコンクリート製の建物を除いて、そこに一切の住居の姿はない。石巻ではその被害が最も被害の大きかった門脇(カドノワキ)地区だ。かつて海岸線から、この山の麓までは工場と住宅が隙間なく存していた。まるで変わり果てた姿だ。

そして、この山の麓近く、太平洋にそそぐ北上川の方向に目を移す。

写真中央のやや左、純白の卵型をした建物は石ノ森萬画館。あの日、その一階までは冷たい水にさらされたが、その水位はそこまでで、2回以上に避難していた人々をこの建物は守り抜いた。被害は少なからずあったが、全面的にとは言えないまでもすでに営業は再開されており、そこに展示されている石ノ森章太郎のてによるヒーローたちは、今、被災の地にあって子どもたちのみならず多くの人々を励まし続けているであろうことを今は信じたい。

そしてそのヒーローたちが展示されているこの萬画館のやや右手に見える白い建物が石巻ハリストス正教会教会堂だ。1880年、同市内の千石町に建設されたもので、今ある木造教会堂建築としては日本最古級のものだ。1978年、宮城県沖地震の際に被災したものの、「文化財として保存を」という市民の声により、現在地に移築・復元されていた。そして、今回もまた津波の猛威に激しくさらされた。あの日、この北上川を遡上する冷たい波濤の映像を見たときこの北上川河口部の中瀬にあるこの明治の名建築は跡形もなくその姿を失ったと私は思っていたのだが、ご覧のとおりこの神の館は今回の震災においても耐え抜き、なんとかその姿をとどめていた。

私が高校時代の3年間を過ごした街の変わり果てた姿をひとしきり眺めた後、空腹に気づいた私はその周辺で食事をとろうと思い、あたりをうろついた。立派な門構えが目に入る。「蛇の目寿司」と書いてある。

こんな場所に寿司屋などなかったはずだが・・・?

東北・・・いや、全国でも有数の漁港を持つこの町は、寿司の町でもある。かつて市内には数えきれない寿司屋が存し、三陸の美味を人々に供していた。しかし、あの日多くの寿司屋が被災し、今、営業を再開している店はまだほんのわずかだという。この「蛇の目寿司」もそのうちの一つだ。かつては山の下の市街地に店を構えていたのだが、やはり被災し、その場所での営業が今は困難だというので、今はこの山の上の住居の庭先に仮店舗としてその営業の再開が始まったのだという。

ためらわず私は暖簾をくぐり、握ってもらう。営業が再開されたとはいえ、仮の店舗による営業・・・施設も材料も充分ではない。五つしかメニューは用意されていなかった。

食事を終えた私は、山を下り、先ほど見下ろした門脇地区に車をむかわせた。

・・・何もない・・・

あれほどぎゅうぎゅうに立て込んでいた家々が一切ない。道の両脇はきれいに瓦礫が撤去されただの荒れ野原になっている。ところどころにかつては存在しなかった小高い丘が見える。撤去された瓦礫の山だ。恐ろしいほどの量の瓦礫がそこには積み上げられていた。かつてそれらの瓦礫が構築していたであろう家々があれ野原になってしまったこの地域には立ち並んでいて、夜になれば暖かい灯火が窓に揺れていた。

けれども、その揺らめきは今私の記憶の中にしかない・・・

石巻の市内を車で一回りする。中心街は人通りもまばらで宮城県で2番目の人口を誇る町としては余りにも寂しい状況だ。商業街の平日の昼下がりという条件を考慮に入れても、かつての賑わいから見れば、その衰弱は隠しようもない。郊外に巨大な店舗が続々と進出し、商業の中心がそちらに移動した結果なのだが、そこに今回の津波だ。

郊外の道路沿いの商業地は内陸に位置し、被害の度合いはかつての中心街のそれに比べればごくわずかであったのだろうか・・・・・・倒壊したり、破壊されたりしているような建築物が見あたらない。

この町のドーナッツ化はますます拍車をかけられるに違いない。かつての中心街がわずかばかり保っていた余力も暗く冷たい波濤が根こそぎ奪い去ってしまったかのように私には見えた。

私がこの街を闊歩していた頃、この郊外に現れた巨大な商業地域はまったくそのかけらさえもなく、息になれば黄金の波が延々と続く田園地帯であった。対して中心街は・・・私の空虚な回顧はもはや意味をなさない。いくら過去を振り向いてみたところで、石巻のような地方都市においての商業地域のドーナッツ化は、今、この国のどこでも目にできるありふれた現象なのだ。

人が集まりそこに「あきない」が始まる。その「あきない」がさらに人を集め、「あきない」がさらに巨大化する。そんなごく当たり前の事実をこの国は捨て去ってしまった。「あきない」はその町の人口を越えて、巨大化を思考する。その町以外の人々をも巻き込んでその収益を増大させようとする。日常の何気ない生活の中で生まれる当たり前の需要に対して、当たり前の供給が行われる・・・そんな「あきない」はもはや細々と命脈を保つことしか許されなくなっている。

そしてこの町では、あの日突如襲来した悲惨によって、その全国的な傾向の速度が速まった。

後戻りは・・・もはや望むべくもない。

とするならば、この町の復興のあり方の一つとして、今、進みつつあるこの現象をいかに上手に取り組んで行くことを考えていかなければならないのだろう。それがいかに人々の懐古の情を置き去りにしてしまうものであっても、それがこの町の人々がよりよく生きるための復興であるのならば、目をつぶらざるを得ないものなのだろう。何が最善か・・・それはそこに住む人々が決めるべきことなのだ。

13時30分頃・・・私は石巻を後にした。県道16号線から三陸自動車道に乗り、仙台空港を目指す。私が乗る大阪伊丹行きは17時45分発。時間にはまだまだ余裕がある。けれども、昨日、兄から聞いた話によるとこの高速は平日の昼間、非常に混雑することがあるらしい。あの日以来、県の東西を結ぶJR仙石線は東松島付近で途絶した。代替えのバス運行はあるものの、多くの人々は自ら車を走らせる以外にすべがないのだという。なにせ宮城を代表する二つの都市、仙台ー石巻を結ぶ路線だ。この路線が途絶したままであることは、多くの人の移動に影響を及ぼす。加えて、この平日の昼間は復興のための工事車両が多くこの道を利用する。私はもしもの渋滞に備え、早すぎるとは思いつつ石巻を後にした。

予想に反して道はすいており、車は1時間余りで空港へと到着した。15時少し前だ。出発まで3時間弱。どうやって時間をつぶそうかとは思ったが、今回の帰郷の用向きが用向きなだけにこれまで土産らしいものは一切見てこなかった。こうやって時間が余ったのを幸いに、空港の土産物屋をのぞく。けれどもそれだけでは3時間弱の時間を潰すことは困難だ。空港3階にあるラウンジで一杯傾けながら空港を発着する飛行機でも眺めてやれと3階に向かおうとした

が、3階に向けてのエスカレーターは閉鎖されていた。

3階はあの日から閉鎖されたままなのだ。

まさか、こんな建物の3階まで水が来たわけもないはずだ。とすれば地震による損壊か・・・

津波のあまりの被害の大きさについつい忘れがちになるが、あの日は地震そのものも並大抵のものではなかった。宮城県北端の最大震度を計測した地域では震度7、その他多くの地域が震度6強を計測していたのだから、そのことによる被害にも計り知れないものがあったはずだ。そういえば震災当時は仙台駅の天井が崩れ落ちる映像などが繰り返しマスメディアは伝えていた。あの暗く冷たい波濤がもたらした厄災の大きさのあまり我々はついついその揺れによってもたらされた悲惨を忘れがちになってしまう。

私もその一人だ。

やがてフライトの時が来た。日常に帰る時が来た。散々に打ちのめされた我が郷里を私はこの2日、目にしてきた。この地の人々があの日以来味わって来た辛苦のかけらすら私は舐めてはいない。けれども喪われたものの大きさはそんな私にもある程度は理解できる。その上であえて言う・・・

・・・私の故郷は・・・やっぱり、いいところだ・・・と。