宗祇の話ひとつ

宗祇といえばご存じの方も多いかと思う。連歌師として室町時代に活躍した人物である。彼について以下の逸話は、先日紹介した佐竹昭広氏の「万葉集抜書」におさめられている「五七五七七」という論文に紹介されているものだ。興味深い逸話だったので紹介させて頂きたい。

宗祇は連歌の修行のため東国を旅していた。するとその途中の道に二間四方の立派なお堂があった。宗祇は底に立ち寄り腰を下ろした。
すると、そのお堂の堂守が現れて言う。
  「あなたは上方よりいらっしゃった方か」
宗祇答える。
  「そのようなものです」
堂守言う。
  「ならば私が発句を一つものしようと思うのでそれに下の句をつけて下され」
と言って
  新しく  作りたてたる  地蔵堂かな
と詠む。宗祇はその句に
  物までも きらめきにけり
と付けた。すると堂守は
  「これはみじかいの」
と言う。宗祇は答える。
  「そちのいやことにあるかなを足されよ」
と。

さて、この話のおもしろみは何処にあるのか。まず、堂守の発句を見て頂きたい。本来発句は俳句の前身(こういってしまうと若干問題はあるが)五七五とあるべきである。所が五七七。字余りも甚だしい。ここは、素人の堂守なるがゆえのことのように、ここは読み取れよう。それに対して、宗祇は五七と答える。付け句は本来七七。発句と対になり五七五七七とならねばならない。ところがこれでは五七七五七。まるで体を為さない。よって堂守は己の字余りを棚に上げて「少し短くはないですか。」と言った。宗祇は「あなたの発句の余った二字を足して下さい。」と答えた。すると五七七の最後の七から二を引いて発句が五七五、余った二が下の五七に行くから・・・・ああもう面倒くさい。とにかく、数字の上では五七五七七と整った物になる。

けれども、それだけでは単なる足し算引き算の問題である。私は面倒くさくなってしまったが小学校も二年生にもなれば出来る問題である。注目したいのは発句の余った二字の「かな」。この発句の上での意味はいわゆる「切れ字」ってやつだ。音調を整えたり、詠嘆の意味をそえたりする。しかし、その「かな」を宗祇の五七の上に足すと

かな(金)物までも きらめきにけり

となる。

ここでの堂守はおそらくは発句の素人愛好家と言ったところだろうか。だから発句には「切れ字」が必要もないところなのに、使わなければならないとの思いこみから、字余り承知で「かな」を付けてしまう。連歌の宗匠たる宗祇はその字余りを非難することなく、その過ちを訂正してしまうのだ。

この話は「宗祇諸国話」には少しシチュエーションを換えて載っている。まず堂守が田舎の宗匠となっていて、発句は「新しく つくりたてたる 薬師堂かな」となっている。これに対して宗祇は「物光る  露の白玉」と付ける。田舎宗匠は宗祇の字足らずに難癖を付ける。宗祇はその心を説明する。

新しく つくるたてたる 薬師堂 金物ひかる 露の白玉

その心を知った一座の物は肝をつぶす。そしてもう一つつぶれた物がある。田舎宗匠の顔だ。どちらが本来の話か分からない。あるいは全く違った話が語り継がれるうちにそれぞれの話へと変容をとげたのかも知れない。さて、皆さんはどちらの話がお好みか?