都祁だより・・・氷室

都祁の地が文献に初めて登場するのは「日本書紀」仁徳天皇の62年の次の記事である。

額田大中彦皇子、鬪鶏(ツゲ)に獵(カリ)したまふ。時に皇子、山上より望み、野の中を瞻(ミ)たまふに物有り。其の形廬(イホ)の如し。・・・・よりて鬪鶏稻置大山主(ツゲノイナキオホヤマヌシ)を喚(メ)して、之に問ひて曰(ノタマ)はく、「其(カ)の野中に有るは何の窨(ムロ)ぞ。」とのたまふ。之に啓(コタ)へて曰(イ)はく、「氷室なり。」とまうす。皇子曰はく、「其の藏(ヲサ)めたるさま如何(イカ)に。亦(マ)た奚(ナニ)にか用(ツカ)ふ。」とのたまふ。曰はく、「土を掘ること丈餘り。草(カヤ)を以て其の上に蓋(フ)く。敦(アツ)く茅荻(チススキ)敷きて、氷を取りて其の上に置く。既に夏月を經(フ)るに泮(キ)えず。其の用ふこと、卽(スナハ)ち熱き月に當たりて、水酒に漬して用ふ。」とまうす。皇子則(スナハ)ち其の氷を將(モ)て來たりて、御所に獻ず。天皇之を歡びたまふ。

本当は自力で原文に挑んだらいいのだろうが、それほどの力量もないので岩波の古典文学大系の書き下しを参考にさせていただいた(念のために白文を最後に収録した。ご参考までに・・・)。一部、私の手も入っているが、おおむね古典体系の編者の書き下しなので、皆さんは安心して読んでいただいて良い。ただ、この古典文学大系の日本書紀は不親切にも(笑)口語訳がついていないので、仕方がないから私なりの理解を以下に示す。あまり詳しい口語訳にするとぼろが出るので少々物語風に概略を示すにとどめる・・・

額田大中彦皇子が闘鶏(都祁)の地において御狩りをなさった時、皇子が小高い山の上から周囲を見渡した。すると野の中に庵の様な形をした見なれぬものがあった。・・・中略・・・そこで闘鶏の国の国造である大山主を呼び出し

「この野中にあるものは一体何のためのものだ。」

大山主は答える。

「氷室でございます。」

と。皇子は

「どのようにして氷をしまっておくのか?またその氷は何に使うのか?」

と重ねて問う。大山主は答える。

「地面を一丈ほど掘り下げ、その上に萱をもって屋根とします。掘り下げた穴には茅やら薄を敷き詰めその上に取ってきた氷を置くのです。そうすると夏になっても氷は解けずにあります。そして暑くなってきたら酒に入れるのです。」

そこで皇子はその氷を持ち帰って御所に献上した。天皇はいたく歓んだという・・・

額田大中彦皇子は仁徳天皇の兄弟。おそらくは同母ではないであろう。

闘鶏と書いて「ツゲ」と読ませている。今、私の勤めている職場がある奈良県奈良市都祁の地である。ただし、古代においての都祁の領域はその周辺の天理市福住、山田も含んでいた。私がこのブログにおいて都祁という時はこの意味で使うことが多い。大和盆地の東部に連なる山々(大和高原)の西端の尾根筋を越えたあたりに盆地状にひらけた地域である。

この地名の表記については「日本書紀」(720)の後に編まれた史書「続日本紀」(797)にはすでに「都祁」の字面が見られるようになるが、「日本書紀」においては他の箇所(2か所)も「闘鶏」で統一されている。また延喜式(平安中期)には「都介」とも表記されている。

氷室は「土を掘ること丈餘り。草を以て其の上に蓋く。敦く茅荻敷きて、氷を取りて其の上に置」いて冬場にできた氷を夏まで保管しておく施設である。都祁の地は大和盆地の平均標高よりも400mほど高い場所にあり、大和では寒冷の地として知られている。主な氷室跡は天理市福住にあるものだが、近年、奈良市都祁からも各種 推定氷室遺構が発見されだしている。おもに朝廷への献氷するための施設で、この話に出てくる鬪鶏稻置大山主はその担当官だったのではないかと考えられる。

ところで1988年、長屋王家発掘調査時に奈良時代初頭の氷室経営の状況を記す貴重な資料が発見された。大量に発掘された。川村和正氏「都祁氷室に関する一考察」( 龍谷大学考古学論集Ⅰ,2005年3月31日,同論集刊行会発行)にその詳細が紹介されている。

1号木簡は、表面に「都祁氷室二具、深各一丈(約3m)、廻各六丈(円周約18m=径約5.7m)」と氷室の数や規模など氷室設営に関する詳細が記されている。裏面は「和銅五年 (712)二月一日」の年紀が記される。2号木簡には年紀は無いが、表面の「閏月・閏六月」は和銅4年(711)閏6月を意味する。裏面の「都祁氷進始日」は、同年 「七月八日」都祁氷室から氷貢進が始まったことが読み取れる。「八月廿日」まで15回以上にわたり多数の長屋王家家人が関わり、都祁から氷が運ばれたことが判る。3号木簡裏面の 「九月十六日」は陽暦の10月中旬にあたり、季秋にも進氷されている。

http://www.manabook.jp/iceman-library09kawamura.htm

少々古代史に知識があるならば長屋王の名はご存知であろうが、その邸宅跡の発掘の際には実に多くの木簡が発見された。大量の木簡の中から確認された王家におさめられた食品名を次に列挙してみよう。

鯛・鮑・鮎・鯵・荒鰹・鮒寿司・栗・海老・ナマコ・干蛸・生牡蠣・生鮭・鹿・鴨・猪

なかなかのグルメである。ほかに水産物や野菜を用いた漬け物や和え物、干し柿、草餅なども食卓に上っていたとみられる。牛乳を煮詰めて作った今でいえばチーズのような蘇(ソ)も食していたらしいし、そのためだろうか、毎朝今の神戸の辺りから2升の牛乳を運ばせていたらしい。

そして、その優雅な食卓をさらに彩りを添えるのはアルコールの類であろう。食欲の落ちる夏などはそのアルコールもキュッと冷えていてくれれば、これに勝るものはない。長屋王はそのための氷室を自前で所有していたとみられる。平城の都ではすでにオンザロックの杯が交わされていたのである。


額田大中彦皇子、獵于鬪鶏。時皇子自山上望之、瞻野中、有物。其形如廬。乃遣使者令視。還來之曰、窟也。因喚鬪鶏稻置大山主、問之曰、有其野中者何窨矣。啓之曰、氷室也。皇子曰、其藏如何。亦奚用焉。曰、掘土丈餘。以草蓋其上。敦敷茅荻、取氷以置其上。既經夏月而不泮。其用之、卽當熱月、漬水酒以用也。皇子則將來其氷、獻于御所。天皇歡之。自是以後、毎當季冬、必藏氷。至于春分、始散氷也。