人がそこに住み、暮らし続けるということ

孔子が泰山のそばを通った時のこと・・・墓の傍らで声を上げて泣く婦人がいて、その様子は悲しげだった。先生(孔子)は車の横木に手をついて丁寧に礼をして、、弟子の子路にその理由を質問させた。
「あなたが声を上げて泣く様子は重ね重ねの悲しみがおありのようです。」。
するとその婦人は答えた。
「そのとおりです。昔、私の舅が虎によって死に、私の夫もまた虎によって死に、今度は我が子までもが虎によって死にました。」。
先生は重ねて聞いた。
「どうしてそんな危険な場所を立ち去らないのですか」
婦人は答える。
「ひどい政治がないからです」
先生は振り返って弟子達に言った。
「弟子達よ、、このことをよく覚えておきなさい。ひどい政治は虎よりも恐ろしいのだ」と・・・

孔子泰山の側を過ぐ。婦人の墓に哭する者有りて哀しげなり。夫子式して之を聴き、子路をして之に問はしめて曰く、
 「子の哭するや、壱に重ねて憂ひ有る者に似たり。」と。
而ち曰く、
「然り。昔者吾が舅虎に死せり。吾が夫又焉に死せり。今吾が子又焉に死せり。」と。
夫子曰く、
「何為れぞ去らざるや。」と。
曰く、
「苛政無ければなり。」と。
夫子曰く、
「小子之を識せ。苛政は虎よりも猛なり。」と。

(「礼記」檀弓下)

以上は、無道な政治がいかに恐ろしいものであるかを語る寓話としてあまりにも有名な話であるが、何も今の政治状況を語るためにここに引用したわけではない。ではなぜ、突然こんな寓話からブログを書き始めたのか?

それは最近訪問し始めたまっつんさんという方のブログ積讀日記の最新の記事「『三陸海岸大津波』 文春文庫 よ-1-40」にあった

 「何でそんな津波の多い危険なところに暮らすのか?」という疑問は、正直なところ、最初はオイラも抱いていた。が、やはり人が住み慣れた土地を離れたり、先祖代々の生活方法を捨てるというのは、簡単なことではないのではないかなぁと今は思ったりもする。

という一節に触れたためである。

2011年9月 かつては向こうの松林まで家が連なっていた。

私の生まれ育った宮城県東松島市野蒜の多くの地域は、かの日の昏く冷たい波濤により壊滅し、人々は他所に移住を余儀なくされた。むろん中にはそのような恐ろしい場所にこれ以上暮らし続けてはいられない・・・そのような思いから移住された方も少なからずいらっしゃるが、基本的にはその場所が復興にまつわる新たな町作り計画により人が居住することが認められない地域に指定されたからである。人々は新たに造成される「町」、そしてまたそれぞれが新たに自分の居所として定めた場所に移住し・・・あるいは移住しようとしている。

けれども・・・もし、この行政によるこのような措置がなされなかった場合を考えたとき、それは一定の比率には過ぎないのかも知れないが、代々暮らし続けた地で再び生活することを選ぶ人々が少なからずいたに違いない。そして・・・それと同じことは、これまで幾たびかこの地を襲った悲劇のたびに繰り返されていたに違いない。

多くの人々の命が奪われ、自らもまたその危機を辛うじて逃れ・・・さらには生活を営むすべの全てを破壊し尽くされても、なぜ人はそこに暮らし続けるのか・・・あるいは暮らし続けてきたのか・・・

まっつんさんの問いは実に正鵠を射るものであることは疑うまでもない。そんな疑問を抱いたとき、ふと私は以前訪れた「千年村プロジェクト」というサイトを思い出した。

〈千年村〉とは、千年以上にわたり、自然的社会的災害・変化を乗り越えて、生産と生活が持続的に営まれてきた集落・地域のことをさします。
千年村プロジェクトは、全国の〈千年村〉の収集、調査、公開、顕彰、交流のためのプラットフォームとして構想されました。東日本大震災後に、優れた生存立地を発見しその特性を見出すことの必要性を感じたことが発端です。関東と関西に研究拠点を持ち、環境・集落・共同体に関する諸分野の研究者・実務者らで構成された千年村プロジェクトによって運営されています。(千年村プロジェクトとは

というのが、このサイトの趣旨である。

平安時代中期(承平年間931~ 938)に編まれた辞書・・・さらに百科事典という要素も併せ持っている・・・「倭名類聚鈔」には「國郡部」が部立てとして設定され、そこには古代律令制における行政区画である国・郡・郷の名称が網羅されている。このプロジェクトは、そこに記されている地名の比定地を探し、現在の集落の分布と重ね合わせることによって、「千年以上にわたり、自然的社会的災害・変化を乗り越えて、生産と生活が持続的に営まれてきた集落・地域」を探し出すことを、その作業の第一歩としている。そして集落の「環境・集落・共同体の各分野にもとづいたその持続要因の分析と、その地域の性格(キャラクター)を把握し」、さらにはその村の存続に寄与しようというのがその目的なのだという。

話題は少しそれるが、かつて考古学者石野博信氏と言葉を交わす機会があったとき氏が次のようなことを言っていたのを思い出した。

それは氏が長年関わってこられた我が桜井市の纏向遺跡に関わってのことだった。ご存じのように纏向の地はヤマト政権発祥の地ともくされ、考古学的にも重要な発見が毎年のようになされている地であるが、実はその推定地域の5%に満たない地域しか発掘調査は進んでいない。理由は至極単純である。今もなおそこに多くの人が住み、宅地として、農地として利用されているからである。まさか現に人が住んでいる家をこぼち、その下の地面を掘り返すわけにはいかない。そこに住む人々の生活を支える田畑を掘り返すわけにも行かない。したがって発掘はなんらかの工事があってその場所が一時的にもその住人の生活から切り離されるわずかな間隙を縫ってしか行うことは出来ない。

そこで私が「なんとも歯がゆい状況ですね・・・。」と問いかけたときのことであった。

「まあ、仕方ないわな・・・今もそこに人が住んでいると言うことは、そこが人が暮らすには便利な場所であるからや。1700年位上も前からそんな場所だったから、纏向はあるんや・・・」

と氏はお答えになった。

確かにそうなのだ。人がそこに住み始め、暮らし続けるには必ずそこに一定の要因が存するはずだ。それなしには長い年月にわたって人が居住を続けるわけがない。

だとすると・・・この度、被災した多くの地域もまた、これまでの集落の歴史の中で幾たびもの悲劇を経験しても、なお、そこに人々が居住し続けてきたことにはその危険要素を越えたなんらかの要素があったからに違いない。それはいったい何なのか・・・

その答えの一端を次のように与えてくれる文章にであうことが出来た。

なぜお婆さんたちのご先祖は、代々ここで暮らしていたのか? それは戦乱で日本が貧しく、インフラが未熟だった時代(間近では昭和20年代)には、都市に住んでいるよりも、山あいに住んだ方が、清潔な水、食べ物、燃料、建材が、お金ではなく労働と協調によって手に入り、生きやすかったからです。こうした集落の多くは平家の落人、戦国時代起源の伝説を持ち、新しいところでは敗戦直後の満洲帰還者の戦後開拓として始まった所が多いのです。先のお婆さんも、戦後の飢餓の時代も麦があったから食べ物には困らなかったと言っていました。彼らは自分の事は自分で出来る、お金に頼らず生きて行ける力を持つ、逞しい知恵と力の持ち主です。食べ物を収穫し、うまく保存し、炭を作り、製材をする。先行きの見えない今の時代、人が最も必要とする確かなものではないかな、と思うのです。(「昔の人は、なぜ不便な山村に暮らしていたのか?」 NHKオンライン アーカイブス エコチャンネルのブログ)

確かにこの一文で述べられているのは戦後の間もない頃という限られた時代であり、幾世代もに渉って・・・というこれまでの私が述べようとしてきたことからみれば、かなり限定された時代についてしか述べられてはいない。しかも、常に津波の危険にさらされている海岸線の集落と、山村の集落とは状況が違う。けれども、そこに暮らし続けてきた人々にとって「清潔な水、食べ物、燃料、建材が、お金ではなく労働と協調によって手に入」る「生きやす」い場所であったという事実は共通していたのではないか・・・

「インフラが未熟だった」だけではなく、貨幣経済自体がそれほど大きな意味を持たなかった(全くという事ではない)であろう近世以前の地方集落にあって、自分の事は自分で出来る、お金に頼らず生きて行ける・・・そんな場所は、他の何物にも代えがたい大切な場所であっただろう。とりわけ、水と食料は生を営むためにはけっして欠かす事の出来ない要因である。そして人々は・・・そのために今いるその場所に暮らし始め、世々を経てきたのである。無論、そこが安全な場所であるに越したことはない。けれどもいくら安全であったとしても、そこが水も食料も得られないような場所であったならば・・・人はそこで暮らし始めたりはしない。一見、何を思ってこんなところに・・・というような場所であっても、人がそこに暮らし続けてきた理由はあったはずである。

けれども・・・時代は変わった。産業の構造は決定的に変化し、労働は貨幣に換算され、その貨幣無しには暮らしが立ちゆかない世となった。これは逆に言えば、貨幣さえあれば・・・そしてその貨幣を得るための労働の場さえあれば(さらには都市の発達やインフラの整備も加わって)、人はどこで会っても生活を営むことが可能となった。今回の震災に関わっての復興計画の中で大規模な移住がなされようとしているのも、その変化が可能とさせたものだ。

しかしながらそこにはある種の悲哀が存するのも否めはしない。そこに「住み慣れた土地を離れたり、先祖代々の生活方法を捨てる」ことは、ある意味では、自分たちのアイデンティティーの放棄につながりかねない。だからこそ人は自らの郷里を愛し、執着するのだ。そしてそれこそが、このたびの被災により、郷里を離れねばならなくなった人々に、生爪を剥ぐような苦痛をもたらしているのだ。

30年以上も前に郷里を離れ大和の地に生活の根を生やし、帰郷することも稀になった私ですら、その稀な機会に誰も住まなくなった生活の痕跡すら残してはいないふるさとを見ることはつらく・・・せつない。ましてや、あの日までそこで生活し、それ以降もそんな毎日が続くと信じていた人々は、自分たちのよりどころになる場所が・・・消失し、再びそこに暮らすことが禁じられてしまったのだ・・・あるいはあの日の未曾有の惨事を想起させるものとして、再びその地に立つことすらかなわぬものになってしまったのだ・・・・

Photo0067.jpg
2011年9月 私の実家の近所にあった白髭神社の狛犬。おそらくは震災ののちに再設置されたものだろう。

今必死になって生活の再建に取り組んでいる人々の中には、デラシネになってしまった(「になってしまった」というのは不適切だ。「にされてしまった」と言った方が正確だろう)思いを抱きながら日々を過ごしていらっしゃる方も、けっして少数ではなく存在するだろう。そんな人々が、そんなやりきれぬ思いから解放されるのはそんなに容易なことではない・・・


 

以上、この文章の書き起こしから見るとずいぶんとかけ離れた場所まで話が飛んだように思われるかも知れない。そのあたりの不明はお詫びするしかないが、今回この記事を書こうと思い立ったのは、暇に任せてあちらこちらとネットサーフィンを楽しんでいた折に、上に述べた千年村プロジェクトというサイトに出くわした事がきっかけだ。隅から隅までというわけではないが、サイト全体に目を通し、その趣旨に共感を覚えた私はこの営みをできる限り多くの人に知っていただきたいと思った。

「このデータベースが呼び水となって、新たな〈千年村〉の報告がもたらされることを期待しています。」という一節が上に紹介した千年村プロジェクトとはという頁にあるが、無学の私にはこれと言った情報提供が出来そうではない。ならば・・・我がブログに訪問いただいている諸賢にこの情報を伝える事だけでもさせていただこう・・・と思ったのだ。

だがいざ書こうとすると、どのように書き起こしたものか・・・遅々として筆(キーボード)は進まず・・・・といった状況の時にまっつんさんの文章の「何でそんな津波の多い危険なところに暮らすのか?」という問いが目に入った。まっつんさんのブログに行っていただければすぐにわかることであるが、まっつんさんは漢学の才をもたれたお方・・・と、ここからは実に短絡的な発想に出してしまうのであるが、このまっつんさんの問いに・・・そうだ、孔子が答えているではないか・・・とふと思い当たったのである。浅はかと言えば浅はかな着想である。

以上が今回の支離滅裂な文章の言い訳である。言い訳を言わねばならぬのなら皆さんに公開しなければいいものだが、せっかく書き始めたことだ。奇特であること、比肩しうるものがない我がブログの読者の方々は、そんな支離滅裂な文章でも、充分に我が意を汲み取って下さる・・・そんな思いからこうやって公開することにした。

2件のコメント

  1. 今回はいろいろ考える材料をいただいたなと思います。
    例えば、東北の海岸線に370㎞の海岸線に十数mの堤防を作る計画があります。
    景観は一変するはずです。僕だったら、それだけで、土地への愛着がなくなってくような話です。
    浜辺がすべてなくなるわけですから。
    堤防は反対と言えば、津波で死ぬのも止むなしとするのかという批判を浴びるかもしれません。
    命を軽んじるつもりはもうとうありませんが、個人の感情でいえば、その時はその時でしょうがないと答えるしかありません。
    どう思うかは人それぞれですから、何が正しいなんていいません。
    でも、故郷として愛せる場所があるとしたら、それは、北緯何度とか、幾何学的に特定できる場所ではなくて、
    風とか、匂いとか、山の鳴く音とか、そういう心象スケッチに記憶されたものを記憶として愛するだろうと思います。僕ならば。

    もっとも、両親の代から、わたらいの民である僕は、定住することが苦痛でしょうがない。
    わたらいの民にとって、土地と我のアイデンティティがなくなる時があるんです。
    今いる土地、それが僕のアイデンティティなのでしょうか。それは常に渡っていきます。
         

    1. 根岸さんへ

      どんなに巨大な堤防でも、それがどこまで自然の猛威に対抗できるのか・・・。
      限られた予算の中で事を進めようとすれば、そこには合理的な想定というものが必要とされてきますが、
      その想定は所詮想定。はかりしれない自然の力量と考えたとき、それが無意味であったことはフクシマの実例をみるまでもありません。
      一方では、堤防が津波に侵入を一時的には食い止め逃げるための時間を稼いだのではないかという議論もなされてきましたが、また一方ではその堤防への過度の信頼により逃げ遅れた人がいることも確かなこと。
      実に難しい問題ではありますが、海の見えなくなった「野蒜」は私にとってもう「野蒜」ではありません。
      津波など絶対あり得ない奈良に住んでいてこんなことを言うのも気が引けて為らないのですが・・・計画されている巨大堤防に違和感を覚えながらも仕方のないこととあきらめている方々も多いのではないでしょうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

This blog is kept spam free by WP-SpamFree.

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください