続日本紀斜読の記・・・複産記事について(補2)

同じテーマで長々と引っ張るのも気が引けるが、もう一度だけお付き合いをお願いしたい。

前回は、続日本紀における複産記事の三つの例を取り上げた。複産(多胎出産)された方々が、お上よりいくらもらったかだとか、そのうちの高屋連薬女さんが他の2人に比べ少々その額が少ないだとか、さもしいことを考えてみた。ただ、考えてみればそこで取り上げたのは、全部で18例ある続日本紀中の複産の記事の中の初めの3例のみであって、そのすべてにあたったわけではない。だから、本当は高屋連薬女さんが他の2人に比べ少々その額が少ないだとかなんだとかは、軽々にいってはいけない。それが・・・学問というものである(なんてことを言う資格が私にはあるはずがないことは皆さんがご存知の通り・・・笑)。

そこで少々面倒くさいわけではあるが、前回の例も含め、他の用例を見てゆくことにする。いちいち丁寧に読んで頂く必要はない。ただ何人産んで、何をもらったか、そこだけ見てもらいたい。まずは次の例を見てもらいたい。

文武三年(699)正月
林坊新羅女牟久賣。一産二男二女。賜絁五疋。綿五屯。布十端。稻五百束。乳母一人。(815束)

文武四年(700)十一月
大倭國葛上郡鴨君粳賣一産二男一女。賜絁四疋。綿四屯。布八端。稻四百束。乳母一人。(652束)

慶雲元年(704)六月
河内國古市郡人高屋連藥女一産三男。賜絁二疋。綿二屯。布四端。(126束)

ここまでが、前回考えた例である。つづいて、お上から下賜されたものの量が数値で示された例を挙げる。

慶雲四年(707)五月
村國連等志賣一産三女(美濃國)。賜卌穀斛。乳母一人。(?)

和銅元年(708)三月
美濃國安八郡人國造千代妻如是女一産三男。給稻四百束。乳母一人。(400束)

和銅四年(711)七月
山背國相樂郡狛部宿祢奈賣。一産三男。賜絁二疋。綿二屯。布四端。稻二百束。乳母一人。(326束)

和銅七年(714)五月
癸丑。土左國人物部毛虫咩一産三子。賜穀卌斛并乳母。(?)

天平五年(733)九月
遠江國蓁原郡人君子部眞鹽女。一産三男。賜大税二百束。乳母一人。(200束)

天平十八年(746)正月
右京人上部乙麻呂之妻大辛刀自賣一産三女。給正税四百束。(400束)

天平勝宝二年(750)七月
攝津國瓺玉大魚賣。參河國海直玉依賣一産三男。並給正税三百束。乳母一人。(300束)

つづいて、どれほどの量をいただいたかが明らかではないもの。

慶雲三年(七〇六)三月
右京人日置須太賣。一産三男。賜衣粮并乳母。

霊亀元年(七一五)十二月
常陸國久慈郡人占部御蔭女一産三男。給粮并乳母一人。

養老元年(七一七)六月
素性仁斯(右京)一産三女。賜衣粮并乳母一人。

天平勝宝四年(七五二)七月
下総國穴太部阿古賣一産二男二女。賜粮并乳母。

宝亀七年(七七六)閏八月
丹後國与謝郡人采女部宅刀自女一産三男。賜粮及乳母粮料。

宝亀十一年(七八〇)四月
左京人椋小長屋女一産三男。賜乳母一人并稻。

天応元年(七八一)十月
下総國葛餝郡人孔王部美努久咩一産三兒。賜乳母一人并粮。

慶雲三年(七〇六)二月
山背國相樂郡女鴨首形名三産六兒。初産二男。次産二女。後産二男。其初産二男。有詔爲大舍人。

それぞれの末尾の( )の中の数値は、それぞれのいただき物を込めにしたらいくらになるかを、束数に換算したものである(一束は2升・・・現在の8合ほど)。後に挙げた、褒賞の量の分からないものは、先に掲げた量の明らかなものとほぼ同程度と見てよいだろうから、はじめのお二方に対する褒賞がずば抜けていることが分かる。そして、そのほかの例は、多少の多寡はあるものの、そう大きなちがいはない。じゃっかん、話題の高屋連藥女さんだけが他の方々よりも少ない・・・てな感じか・・・

先行する日本書紀では、このような複産に対する褒賞があったとの記事は見当たらない(私が見る限りではだから、あまりあてにならない)から、このような慣習は文武天皇の御代になってからのこと。前回、玉村の源さんから、

複産ってそう滅多にないことだと思って大盤振舞いをしたら、意外と例のあることだったので、ご褒美を大幅に減らしたというのが真相の様に思えてきました。

とのコメントをいただいたが、それがおそらくは正鵠を射ている・・・との印象が、上の例から見通せるのではないか。文武天皇の御代になって新たに複産を褒賞しようじゃないかということになったが、どれぐらいの褒賞か思いつかなかった。このぐらいが適当じゃないかと思い初めて見たものの、思っていたよりも頻繁にその報告があり、もうちょっとその量を減らさなければならないってことになったのではないだろうか。そして、3番目の高屋連薬女さんの時には、その反省のあまりにちょいと減らしすぎたのかもしれない。

ただ、こう言い切ってしまうためには少々考えなければならない例がある。褒賞の量を示した( )の中に「?」を入れておいた、次の2例である。

慶雲四年(707)五月癸丑十六
癸丑。美濃國言。村國連等志賣一産三女。賜卌穀斛。乳母一人。

和銅七年(714)五月癸丑廿七
癸丑。土左國人物部毛虫咩一産三子。賜穀卌斛并乳母。

の二つの例だ。その褒賞の量は具体的に「卌穀斛」あるいは「穀卌斛」とあるが、ようは「穀」が「卌斛」ということであろう。この「卌斛」という単位がどれほどの量なのか以下にちょいと考えてみる。

こく」は容積を表す単位で、大名の領国の米の生産量を示す「石」と同義である。というよりは、「石」を「こく」と読むのは、まず先に「斛」が使われていて、後にその単位を示す文字として「石」が使われるようになったので、文字が変わってもその読みのみが慣習的に残されたものかと思う。

とすれば、「石」は10斗、「斗」は10升であるから、「斛」は100升ということになる。見慣れない文字「卌」であるが、これは「四十」ということ。とすれば、このお二人は、4000升の米を賜ったことになる。前回、1束からは2升のこめがとれるといったから、この「卌穀斛」「穀卌斛」とは、米2000束を拝領したことになる。

これは、ちょいと多すぎるのではないか・・・というのが、私の疑問である。それ2例を除いた場合、一番多く褒賞を賜ったのは林の坊の新羅の女牟久賣さんで、彼女のもらったものを束で勘定すれば815束である。そして、その例については、なにぶん初めてのことなので相場が分からず、褒賞を与えすぎたのではないか、というのが先に考えた内容であった。

しかるに・・・村國連等志賣さん・物部毛虫咩さんがいただいた2000束はその倍を超える。その前後の方々と引き比べてみるに、5倍から10倍に相当する量の米をお国から拝領したことになる。

まさかこの時代に、どこかの国の首相の名を頂こうと試み(断られたそうだが)、しかたがないからその奥さんを名誉校長に頂いた(辞任されたようだが)小学校のようにうまいことやって国有地をただで(あるいはただ同然で)手に入れるような、不逞な輩がいたとは考えられないから、おそらくこのいただき物は他の例とこれほど大きな差があってはならないはずである。

とするならば、考えられるのは2つ。続日本紀の記述が間違っているということが1つ。そしてもう一つが、「斛=10斗=100升」という換算比率である。

前者であるが、2カ所で全く同じ数字で誤るということは可能性としてはあまり考えられない。この2つの記事がかなり近い位置にあったとするならば、勢いで同じ間違いを犯してしまったことも考えられないではないが、村國連等志賣さんの例が巻三、物部毛虫咩さんの例が巻六。ちょいと離れている。だから、誤記説にはちょいと無理があると言っていいだろう。

となれば、考えるべきは「斛=10斗=100升」という換算比率である。しかしながら、古い中国の辞書を調べてみてもこの換算比率は動かない。養老律令にも

十升為斗。十斗為斛。(雑令)

とある。とすれば、奈良時代の1升が今の4合に当たるという仮定自体が違うのか・・・これも、澤田吾一という方が「奈良朝時代民政経済の数的研究」という書物で明らかにしたことらしく、今も多くの方々の指示を受けているとのことで、これも動かすことができない。

また物部毛虫咩さんの例の直後、 和銅7年6月25日には首皇子が元服し正式に皇太子となったことを祝い、大規模な大赦とともに、次のような大盤振る舞いが行われている。

給侍高年百歳以上。賜籾二斛。九十以上一斛五斗・・・賑恤鰥寡惸獨不能自存者。人別賜籾一斛。

100歳以上には籾二斛、90歳以上には・・・という具合にあった施しについて記してある。「鰥寡惸(孤)獨」については、

「鰥」とは61歳以上のやもめ(妻を亡くした夫)、「寡」とは50歳以上の未亡人、「孤(惸)」とは16歳以下の父親のいない子供、「独(獨)」は61歳以上の子供がいない者

とウィキペディアにはある(括弧の仲は私が補ったもの)。「不能自存者」は今でいう「障碍」者を指しているものと思われる。当時、100歳や90歳以上の方がおられたのか、はなはだ疑問だがもしおられたとすれば、非常にまれな例となろう。そのまれな例に対してさえも、この程度の下賜しかなかったことを考えれば、村國連等志賣さん・物部毛虫咩さんに対する「卌穀斛」「穀卌斛」という褒賞は余りに大きすぎると言える。

こんなことを考えているうちに、今回の私と同様な作業をなさっている方のサイトに行き着いた。京都府立大学史学科の学生さんたちが営んでいるサイトらしく、これならば専門の皆さんのなされることでもあるので、期待して覗いてみることにした。

そこには、畿内の例の場合は絁・綿・布をもらえているが、畿外の人々はそれがもらえていないがそれは何故か・・・などという興味深い考察があったりものするが、今私が知りたいのは・・・「斛」の字について・・・

さてこの点についてどのような考察を加えていらっしゃるのか・・・当サイトにおいて、「多産記事」の一覧を別に示していらっしゃるのだが、そちらの方では「斛」の字を「斗」と置き換えていらっしゃる。どうやら、「斛」の字を「斗」と同義、あるいは誤記と捉えて訂正されたらしいが、これでは今回の私の疑問は払しょくされない。

はてさて・・・どう考えるべきか。どうにも私はこの答えを用意することをできなかった。いい加減ながらもそれなりの答えを用意してから記事をアップしようかと思っていたのだが、このままではいつまでたっても記事をアップできなくなってしまう。

ということで、今回は涙を飲んで未完のまま皆さんにお示しすることにする。ということで後はみなさんでよろしくお考えいただきたい。