続日本紀斜読の記・・・複産記事について(補3)

今回も続日本紀の複産記事についてである。まことにしつこくて申し訳ない。前回、「もう一度だけお付き合いをお願いしたい。」と申し上げていながら、実は語るべきことがもう一つあるのだ。それは、下の例についてである。

山背やましろの国相楽さがらかの郡の女、鴨首かものおびとの形名かたな、三たびに六児を産みつ。初めに二男を産みつ。次に二女を産みつ。後に二男を産みつ。其の初めて産める二男、みことのり有りておほ舍人とねりとしたまふ。

慶雲三年(706)二月戊子

続日本紀の複産についての記事は全部で18例。そのほとんど・・・というより、上の例を除いては

林の坊の新羅しらぎおみな 牟久賣むくめ。一たびに二男二女を産みつ。あしぎぬひき、綿五屯、布十端、稻五百束、乳母一人を賜ふ。

文武三年(699)正月

のごとく、物品が下賜されるのが通例。この例だけがそのような物品の下賜はない。代わりにあったのが、上の二人の男子の大舎人への起用である。

他の例と違って、ここだけこのような褒賞の形であったのはなぜか・・・おそらくは、双子を3度にわたって産み続けたということによるのだと思う。他の例は全て三つ子以上であって、基本的には双子では褒賞の対象にはならなかったのだろうと推定されるが、その双子も度重なれば事情が変わってくる。上の二組の双子の時は、「まあ、双子だから・・・」などと褒賞を与えることを考えてもいなかったお上は、「いやいや・・・双子も3度となれば、世の中にはそう例を見ることのできぬもの、これは何かしてやらねば・・・」などと思い出したに違いない。さりとて、褒賞を与えるのは基本的には三つ子以上(そんな決まりがあったかどうかは知らないが、少なくとも前例ではそうなっている)、原則的な線をたやすく変えてしまうわけにはいかない。

そこで窮余の策として、ここでは物品を給付する代わりに、上の二人を大舎人に起用するという措置を取ったのではなかろうか・・・

そうなると、根がさもしい私のこと、この人事が「鴨」家にとってどれほどの経済的な利益をもたらしたのかということを考えてしまう。前回前々回の記事において私は、下賜された物品を同等の米の量に置き換え、そこから現代の米価を基準にしていかほどの金額が給付されたかということを、いくつかの仮定(詳細は上記の記事をお読み頂きたい)をもとに算出してみた。が、ここはそのような換算は必要ない。大舎人という職の収入を調べればいいのだ(ちょいとめんどくさそうだが)・・・

さて、それでは舎人とはどのような職であったのか。一言で言えば、「皇族や貴族に仕え、警備や雑用などに従事していた者。あるいは、その役職。」となるが、その歴史的な位置づけは、そう単純ではない。もともとヤマト王権(「大和朝廷」という語はもう古いらしい)には既に存在した制度らしいが、後にこれが律令により制度化されて行く。今ここで考えるべきは時代からいって後者の制度化された舎人についてであるべきだろう。

養老律令の軍防令 五位子孫條によれば、以前述べた特権階級である五位以上の子孫は、21歳以上でなんの役職にも就いていなければ、その人となりを吟味された上、その身柄が式部省に送られ、太政官がその際の申告に基づき、性識聡敏であり、その儀容が優れている者を内舎人(天皇直属の舎人)として採用された。その際に選考に漏れたものは、式部省が状況に応じて大舎人あるいは東宮(皇太子)の舎人に充てられた(ただし、三位以上の子孫は選考を経ずして内舎人とする)という。とすれば、五位以上の子孫で、性識聡敏ではなく、その儀容に劣ったものが(相対的にではあるが)、大舎人ということになる。

凡五位以上子孫、年廿一以上にして見に役任無き者は每年京國の官司、勘檢し實を知り、十二月一日限りに并びに身を式部に送り、太政官に申せ。性識の聰敏なると儀容の(「霖」?)べきを取りて檢簡し、內舍人に充てよ。 三位以上子は簡の限りに在らず。 以外は式部の狀に随ひ大舍人及び東宮舍人に充てよ。

ただし、これだけでは定められた人数に満たないので、その不足を補うために同令 內六位條には内六位以下八位以上(すなわち、一般的な官吏)の嫡子(子孫ではない)は、21歳以上で何の役職にも就いていなければ、これもまた、京国の官が、その人となりを審査し、これを上(儀容端正で書や算が巧み)・中(身材強幹で弓馬が得意)・下(身材劣弱で文算に不識)の3等級に分け、上等を大舎人、下等を使つかひ、中等を兵部省に送って試練して兵衛ひょうえとすることを定めている。さらにはそれでも人数が足りなければ、庶子(嫡子以外の子)を採用せよ・・・と。

凡內六位以下八位以上嫡子は年廿一以上にして見に役任無き者は、每年京國の官司、勘檢し實を知りて。狀をもとめ簡試して分けて三等と為せ。儀容端正にして書算にたくみなるものを上等と為せ。身材強幹にして弓馬に便なる者を中等と為せ。身材劣弱にして文算を識らざる者は下等と為せ。十二月三十日以前、上等下等は式部に送り簡試し上等は大舍人と為せ。下等は使部つかひべと為せ。中等は兵部に送り、試練して兵衛と為せ。(「如」?)足らざる者は庶子を通取せよ。

これに従って「鴨」家に与えられた褒賞について考えるならば、まず大舎人に取り立てられた二人の父親は六位以下八位以上の官吏であって、規定に従えば、本来ならば選考を経なければ、その上等である大舎人になることはできないが、勅によりその選考は免除され大舎人に起用された、そして本来は嫡子のみの起用であるところを、庶子であるもう一人も同じような起用がなされたという見方ができよう。

そしてもうひとつ。この二人の父親が位階を持たない(あるいは持っていても初位)身であって、本来ならばその選考の対象とすらならない二人ではあったが、勅命により大舎人に起用されたという見方もできる。

こちらの方が、褒賞としては前者よりはよりありがたいものとなる。はてさて・・・どちらが正しいやら・・・

「鴨」と名のる人々には八咫烏に化身して神武天皇を導いたとされる賀茂建角身命かもたけつのみのみことを始祖とする流れと、大神神社の祭神、大物主大神おおものぬしのおおかみの子である大田田根子おおたたねこの孫の大鴨積おおかもつみを始祖とする流れとの二つがある(一説には、前者は後者の一部の人々が山城に移住したものだという)。

このうち、日本書紀・続日本紀を通じて、その活躍が知れるのは後者の「鴨」氏。前者の山城の「鴨」氏は、今回の「鴨首形名」さんが出てくるぐらいで、ちょいと影が薄い。浅学ゆえ、天武天皇が制定した八色の姓の中に位置づけられていない「首」という姓がどれほどのものかは知らないが、朝廷内においてそれほど重きをなした家柄であるとは考えられない。仮に何らかの官職に就いていたとしても、それほど身分の高い家ではかったことは確かだろう。私は無位ではなかったかと思う。

とすれば、そのような家に生まれた二人の子供は本来ならば、大舎人などという官職に就くなどということは、普通では考えられないことであっただろうと思う。きっと、この二人の両親にとっては(もちろん二人にとっても)僥倖であっただろうと思う。

さて・・・それでは大舎人という官職がどれほどの経済的利益をもたらすものなのか・・・

凡そ兵衛は六月の內、上日夜各れ八十以上は祿を給へ。位有らば大初位に准へよ。位無ければ少初位に准へよ。授刀の舍人も亦た此に准へよ。

と養老律令 祿令 兵衛條にある。すなわち、兵衛は、6ヶ月中に、日勤・夜勤がそれぞれ80日以上(制度上出勤しなければならない日数)ならば、禄を給付しなさい。位階を持つ者のそれは大初位、位階を持たない者のそれは少初位に準じなさい。授刀の舎人もまたこれに準じなさい・・・とでも理解できるだろうか。

が、ここには大舎人という職名はない。それどころか、養老律令において官人の給与を定めた「禄令」には大舎人という語は見当たらない。そこで見るべきは以下の続日本紀和銅4年10月の記事である。

勅して品位に依りて始めて禄法定む。職事の二品・二位は絁卅疋、絲一百絢、銭二千文。王三位は絁廿疋、銭一千文。

と始まり、その末尾に

八位初位は絁一疋、銭廿文。番上大舎人、帶劔舎人、兵衛、史生、省掌、召使、門部、物部、主帥等、並びに絲二絢、銭十文。

とある。これによれば上の禄令にあった兵衛と大舎人の給与の相場は同じということになる。続日本紀では兵衛・大舎人は八位・初位に位置づけられているのに対し、禄令では「有位准大初位無位准少初位」とあるずれが若干気になるが、まあ、そこは目をつぶって「ええい・・・」と断ずれば、大舎人の収入は大初位・小初位に準ずる者だったと言えよう。

以前示した奈良時代の官人の給与表でいえば大初位で年収240万円ほど、小初位で200万円ほどと推定されるから、今の大卒初任給といったところであろうか。なかなか昇進の機会もなかった番上(非常勤の交代勤務)ではあるゆえ、その収入はいつまでも変わらぬままであったことだろうが、それでも、公務員である。今も昔もその安定性は他職の及ぶところではない。そして、たとえ一番下位の層であるにしても、律令社会の一端に組み込まれる立場でもある。昇進の機会が全くなかったわけではない。

母親たる鴨首形名の喜ぶ顔は容易に想像できよう・・・・


※小字で示した軍防令の本文は、その書き下しに少々(いや、かなり)自信ないゆえに、その気持ちを示そうと小字にて示した。まあ、だいたいはこんなところだと思うが、誤りは遠慮なくお教えいただきたい。