阿騎野にて・・・

先週の週末、仕事の都合で阿騎野に行った。今の職場からは車で15分程、自宅からは20数分でたどり着ける場所だ。

写真は東・・・そう、日の出の方角を向いて撮ったものだ。ご覧の通り何の変哲もない田んぼ道である。けれども・・・中学校の教科書でみなさんも一度は見たことがあるだろう次の1首を読み、目を閉じて想像力を少々たくましくすれば事情は少し変わってくる。

東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ

万葉集巻一・48

の「かぎろひ」は、1300年以上も前の冬(旧暦11月17日)の夜明けに、この空をほの赤く染めはじめた。柿本人麻呂は、その空の変化を見逃さない。そして、振り返る。沈みゆく月が・・・そこに浮かんでいた。

ここで人麻呂は何故振り返ったのか・・・なんて議論は当然必要になるんだろうが、ここで語ろうとしているのはそんなことではない。

人麻呂の歌を、現代を生きる我々の感覚で読んだとき、皆さん脳裏に浮かぶ「東の野」は上の写真のような地形では、けっしてあるまい。

通常、上の一首から想起される光景は・・・それは遮るもの一つない広々とした荒野。徐々に白みかけた東の空が次第に赤みを帯びてくる。そしてついに上りくる日輪の上端がちらりと姿を現す・・・というようなものではないか。

そして人麻呂が振り返ってみた月は同じような原野の先に傾いていた・・・

少なくとも中学校の時にこの歌に初めて触れたときの私は・・・いや、初めてこの地を訪れるまでの私は、そんなふうにこの歌を理解していた。

が、1300年以上前の旧暦11月27日早朝、歌聖柿本人麻呂が見た光景は上の写真のようなものであったはずだ。むろん、舗装された道や田んぼ、電信柱や家は想像を広げ取り除かなければならない。そして一面に「ま草」や「小竹しの」をあなたの想像力により生い茂らせなければならない。でなければ、あなたは柿本人麻呂が見た・・・この歌を詠ませるに至った思いを理解することは出来ない。そして・・・実は「かへり見」た「月」にも同じ作業をしなければならない。

違う機会に撮った写真なので、そのまま上の写真を撮った位置から「かへり見」た景色ではなく、光線の加減も異なっているが、人麻呂がいたであろう場所の西・・・すなわちこの日、月が「かたぶき」かけていた空は、御覧のように高々とした山が聳えていた。

これもまた、初めて私がこの歌に触れたときの印象とはかなり異なった光景である。

このような誤解は、ひとえに作者の歌の力によるものであろう。歌聖柿本人麻呂の想像力は、1300年後の我々にかくも壮大なる誤解をもたらしたのである。

誤解・・・という言葉には、少々語弊があるかもしれない。それよりは人麻呂の類まれなる想像力が、彼の視野にあったかくも狭隘なる地形を、広大なる荒野に変えてしまったと理解するべきかもしれない。そして我々が知るべきは、人麻呂が「狭隘なる地形を、広大なる荒野に変えてしまった」想像の過程であるのだろう。

ただ・・・このような誤解の源泉には、もうひとつ理由があるのではないか・・・そんなふうに私は思っている。それは、「野」という語の理解である。

「野」という語を見た時、われわれはつい広々とした野原を想起してしまう。それもそのはずで、ちょいと手元の辞書を引いてみると、

自然のままにや木の生えた広い平らな土地野原

なんて書いてあったりする。が、「野」という語の意義を奈良時代まで遡ってみると事情は少々異なってくる(ここから先は、まだ学生だった頃、伊勢にある大学からわが母校に非常勤でいらっしゃっていたN先生の講義の受け売りになる)。

「野」なる語はそもそも人手の入っていない場所を指し、けっして広々とした地形を指すものではない。開けた地形を意味する「原」とは峻別しなければならない語である。そしてこの「野」が作る複合語である「小野」「大野」は、けっして小さな「野」、大きな「野」を意味するものではなく、それぞれ人里に近いやや人の手の入った「野」・人里から離れたいっさい人の手の入っていない原「野」をを意味する語なのである。

事実、この阿騎野は人麻呂の時代には明日香の地から上の写真のような高々とした山を越えてこなければならない地であり、当然のごとく人の手の加わらぬ原「野」であったはずだ。

軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌

やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 都を置きて 隠口こもりくの 初瀬の山は 真木立つ 荒き山道を 岩が根 禁樹さへき押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉限る 夕去り来れば み雪降る 安騎の大野に 旗すすき 小竹しのを押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて

短歌

安騎の野に宿る旅人うちなびらめやもいにしへ思ふに

ま草刈る荒野にはあれど黄葉もみちばの過ぎにし君が形見とぞ来し

東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ

日並ひなみしの皇子のみことの馬めてみ狩り立たしし時は来向ふ

万葉集巻一・45/49

試みに、当該の短歌が読まれた際の一連の歌を示してみたが、その題詞にもあるように、この旅は最後の短歌でもわかるように「み狩り」の為の旅であった。そして・・・最初の長歌や第2短歌にもあるように阿騎野は「大野」であり荒野であった。だからこそ「み狩り」の為の旅の地となったのだ。

くりかえす。「野」はけっして広大な開けた地形を指す語ではなかった。が、その意味がいつしか現代の我々が理解するようなものになったとき、我々は視界を遮るもの一つない広大な原野に一人立ち、その果てに上りくる日輪と沈みゆく月を見る歌聖の姿を思い描くようになったのではないか。

むろん、そのように我々がこの歌を理解し始めたのには、上にも述べたように柿本人麻呂の壮大なる想像力が働きかけたことは言うまでもない。