天の原 ふりさけ見れば

前回の記事で、安倍仲麻呂の「天の原 ふりさけ見れば」という歌についてちょいとふれた。古今和歌集に収録され、後に百人一首にも選ばれたこの歌はあまりにも有名である。しかも歌われているのは「春日なる 御蓋の山」である。我がブログの性格上、この歌に触れないわけにはいかない。だから・・・これまでこの歌について、いくどか触れる機会があった。けれども、いい加減な私は、その場の思い付いたことを、きちんとした検証もなく書いてきたために、触れるたびに前回の誤りに気付き、それを訂正するということを繰り返してきた。

春日大社へ行く・・・4

田原の里へ・・・春日大社

山辺の道1日旅行・・・5

安倍文殊院に行く

だから、それぞれの記事で言っていることがまちまちで、いったい何処で語っていることが本当なんだ・・・と、自分でも思うことがしばしばある。このあたりをきちんと整理しなければと、前回の記事を書きながら痛感した。ということで、今回はこの歌について僻見をちょいと整理してみようか・・・なんて思ったのだ。

まずは作品自体をきちんと読んでみる。以下、拙いながらもこの歌についての私見をまとめてみた。私見とは「私(三友亭主人)」の見解である。だから・・・眉に唾をつけて読まなければならないこと、賢明なる皆様なら周知の事柄であると思う。


もろこしにて月を見てよみける

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 御蓋みかさの山に 出でし月かも

こうやって大空をはるかに仰ぎ見ると、望月が煌々と輝いている・・・ああ、あの日、春日の――春日の御蓋の山の上に輝いていたあの月よ・・・

安倍仲麻呂古今和歌集・古今406(百人一首)

この歌は、昔、仲麿を、もろこしに物習はしに遣はしたりけるに、あまたの年を経て帰りまうで来ざりけるを、この国よりまた使まかり至りけるにたぐひて、まうで来なむとて出で立ちけるに、明州といふ所の海辺にて、かの国の人、うまのはなむけしけり。夜になりて、月のいとおもしろくさし出でたりけるを見て、よめるとなむ、語りつたふる。

この歌は、その昔、安倍仲麻呂が唐へ留学生として派遣された際に、多くの歳月が過ぎてもなかなか帰国できないでいたときに、日本からまた使者がやってきたのにしたがって(日本に)帰ろうとした時、明州という海辺の町で、唐の人々が餞別の宴を催した。夜になり、海の上に月が大変趣深く昇ったのを見て詠んだ、と語り伝える。

あまの原・・・ 広々とした大空。空(天)を平原に見立てた言葉。

ふりさけ見れば・・・遥かに仰ぎ見れば。「さけ」は「さく」と同根で(ほんらい同じ場所にあるものを)離すの意、すなわち「ふりさけ見」で「視線を遠くにやる」となる。なお「ふりさけ見」る対象は「天の原」であったり、山であったり雲であったりすることが多いので、その視線は上方に向けられていることも意識するべきであろう。

春日なる・・・ 春日にある。春日は奈良県奈良市春日野町春日大社周辺。

御蓋の山に・・・御蓋山(三笠山とも)のことで標高は297m。山頂の浮雲峰には、神護景雲2年(768)に藤原氏の勧請により、春日大社の祭神である武甕槌命たけみかづちのみことが、白鹿に乗って降り立ったとされている。東にそびえる春日山とは峰続きで、ともに春日大社の神体とされている。この山の麓にて遣唐使がその出立に際し、航海の無事を祈り神祇を祀ったという記録がいくつか残っている。

二月壬申朔 遣唐使 蓋山の南に神祇を祠る

続日本紀養老元年(717)

二月戊子 遣唐使 春日山のふもとに天神地祇ををろが

続日本紀宝亀八年(777)

春日にして神を祭る日 藤原太后の作らす歌一首 即ち入唐大使 藤原清河に与ふ

光明皇后・萬葉集巻十九・4240

出でし月かも・・・「出でし」の「し」は過去の助動詞「き」の連体形、直接体験の過去を示す。

安倍仲麻呂・・・(701年?)霊亀3年(717)、第8次遣唐使の留学生として唐に渡る。唐にて科挙に合格、唐朝の諸官を歴任。同行した吉備真備・玄昉らが帰国した後も仲麻呂は帰国を許されず、その後も唐に留まった。天平勝宝5年(753)、遣唐大使藤原清河らとともに帰国を試みるが、日本へ向かった船は途中暴風に遭って難破、安南(ベトナム)に漂着し、再び唐に戻る。玄宗などに仕えて最終従二品の高位にまで昇る。李白・王維ら文人と交流し、その詩は清乾隆帝勅撰の「全唐詩」などに収められている。宝亀元年(770)、在唐54年、73歳にして唐の都長安に骨を埋めた(贈従二品)。渡唐後は仲満と称し、のち朝衡と改めていた。

朝臣仲満中國の風を慕い 因って留まりて去らず 姓名を改め朝衡と爲し・・・

  (舊唐書 列傳第149上 東夷 日本)

さて・・・以上のようにこの歌を読んだうえで、この歌を読む上での一つの重要なポイントについて触れてみたい。そのポイントとは、なぜ仲麻呂は「御蓋の山」の「月」を詠んだのか・・・ということである。

まずは左注に従って、作家の事情を考えてみることにする。

この歌は、昔、仲麿を、もろこしに物習はしに遣はしたりけるに、あまたの年を経て帰りまうで来ざりけるを、

仲麻呂は上にも述べたように717年に留学生として遣唐使に従い唐へと渡る。そして同時に唐に渡った同期の留学生たち(吉備真備・玄昉など)次々と帰国してゆくが、仲麻呂は帰らない。その才を惜しんだ唐が仲麻呂の帰国を許さなかったと上には書いたが、上に記した「舊唐書 列傳第149上 東夷 日本」の記述(他にも全唐詩などにも同じ内容の記事あり)を見れば、唐での官途を追求するため帰国しなかったとも理解できる。

この国よりまた使まかり至りけるにたぐひて、まうで来なむとて出で立ちけるに、

そして在唐の期間も35年に及んだ752年、藤原清河率いる第12次遣唐使が入唐する。すでに唐の官界においてかなりの高位に達していた仲麻呂は帰国を決意、翌年に秘書監(宮中図書館長、従三品)を授けられたうえで、清河の帰国にしたがって日本に帰ろうとする。

明州といふ所の海辺にて、かの国の人、うまのはなむけしけり。夜になりて、月のいとおもしろくさし出でたりけるを見て、よめるとなむ、語りつたふる。

そしていよいよその旅立ちの時、「明州(寧波ニンポーの古名)といふ所の海辺」にて唐の人々が送別の宴を催してくれた。ただしこの時の一行の行程から考えれば、この「明州」は「蘇州」と考えるのが正しいと思われる。

36年という長い歳月を異郷にて暮らし、ようやく帰国の機会を得た仲麻呂の思いは眼前の大海を隔てた日本に向けられていたことは想像に難くない。したがって、その視線は当然のこととして東に向けられていたはずである。すると・・・その目に映る月は満月でなければならない。

また、御蓋山の上に輝く月も満月でなければならない。なぜならば、御蓋山は大和盆地の東端にあるからである。そして上記のように、その御蓋山の麓にて遣唐使たちはその出立に際し、航海の無事を祈り神祇を祀ったという。仲麻呂が当に渡るその年の2月にも以下のような記録が残る。

二月壬申朔 遣唐使 蓋山の南に神祇を祠る

続日本紀養老元年(717)

まさしく仲麻呂は、この日御蓋山の麓にて航海の無事を祈り御蓋山の麓にて神祇を祀っていた。「出でし月かも」の「し」は過去の助動詞の「き」、いわゆる直接体験の過去を示す。となれば、仲麻呂は御笠山上空の満月を確かに見ていたのだ。そしてはるか離れた唐土、今まさに帰ろうとする日本の方向・・・東の海上に、かの日見た月と同じ満月が煌々と輝いている。そして仲麻呂は思い出す・・・渡唐をひかえ、希望に燃えていた若き日のことを・・・

ただ・・・一つここで解決しなければならない問題がある。もうすでにお気づきの方がおられることと信ずるが、彼らが唐に渡る前に「蓋山之南において神祇を祠」った「二月壬申朔」であった。朔日ということであれば、旧暦のこと、その日に御蓋山の山上に望月は輝いてはいないことになる。

さてさて・・・この問題をいかに考えるか・・・

ちょいと記事が長くなってきた。続きは次回ということで・・・