続 天の原 ふりさけ見れば

前回に引き続き、安倍仲麻呂の

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 御蓋みかさの山に 出でし月かも

安倍仲麻呂古今和歌集・古今406(百人一首)

について考えてみたい。

前回は、この歌に簡単な語注を加え、さらにその左注に従ってこの歌の成立事情について少しく私見を述べた。そして歌中の「月」なる語について以下の考えを示した。

  1. この歌に詠まれている月は仲麻呂が「かの国の人」の「うまのはなむけ」をうけた、「明州(実は蘇州)といふ所の海辺」の東の海上に浮かぶ月を通じて仲麻呂の胸中にありありと思い描かれた30数年前に見た御蓋山上の月であるということ。
  2. その月は、その上っている方角を考えれば満月でなければならないということ。
  3. この御蓋山上の月とは、遣唐使派遣の際に行われた春日山麓にての祭祀の際に見たものであるということ。

の3点である。いずれも多くの方々が示している内容ではあり、とくに目新しいことを言っているわけではない。

が・・・そう述べた後、最後に自ら述べた上記の理解にふと疑問が生じてきた。そしてその疑問を解消することなく前回の稿を閉じた。その疑問とは上記「3」についてで、以下のとおりである。

ただ・・・一つここで解決しなければならない問題がある。もうすでにお気づきの方がおられることと信ずるが、彼らが唐に渡る前に「蓋山之南において神祇を祠」った「二月壬申朔」であった。朔日ということであれば、旧暦のこと、その日に御蓋山の山上に望月は輝いてはいないことになる。

さてさて・・・この問題をいかに考えるか・・・

思い出していただければありがたいのであるが、この問題はすでに前々回の記事で提示した内容である。ただ、その時は

このように考えた時、続日本紀に記された「朔」という日付と、この事実の食い違いをどのように考えるべきかという問題に突き当たる。そして、今、私にはみなさんに確証をもってこうだと言えるような答えは持ち合わせてはいない。ここまで書いてきてそれはないだろうと思われるかもしれないが、ないものはない。なんだか先日までの国会のやり取りのようであるが、国会のそれとは違って実はよく調べてみたありました・・・なんてことはまずない。あとは皆さんがご自由に想像をなさっていただければと思う次第である。

てな感じで、私の手には追えない・・・その答えが「国会のそれとは違って実はよく調べてみたら、ありました・・・なんてことはまずない。」なんてことを言って、皆さんに解決をお預けした。

が・・・やはり、人任せばかりにしてはいられない・・・ということで、前回の記事以降しつこくこの歌について考えてきた。そして・・・そのあたりの疑問をある程度スッキリさせてくれるような考えを幾つかネット上で見かけることが出来た。それらの考えにもとに私なりの筋道を次のように立ててみた。少々お付き合い願いたい。

まずは、大和の盆地にあってその東端にそびえる御蓋山であるから、その山上に輝く月は満月でなければならないことは動かない。

次に、仲麻呂がこの月を見たのは御蓋山の麓付近であったこと、これも動かない。なぜならば夜に盆地の側からはなれてこの山を見た時、いかに明るく月が照っていようと、御蓋山は背後の春日山(御蓋山より一まわりも二まわりも大きい)の影の中に飲み込まれてしまい、その稜線を確認することは出来ない。だいたい、昼だってよほど空気が澄んでないと遠くからでは御蓋山の稜線ははっきりしないのだから・・・

つまり、その麓でなければ、月明かりの下ではそこに御蓋山があると認識することが出来ないからだ。御蓋山のその美しい稜線をはっきりと認識できるためには・・・やはり、仲麻呂はその麓にいなければならない。

この二つを考えあわせると、仲麻呂は遣唐使の一同がうち揃って春日の神に祈りをささげた「二月壬申朔」以外のどの日にか御蓋山の麓に足を運んだのことになる。

だとすれば・・・それは何のためなのか・・・

可能性としては・・・例えば御蓋山近辺に仲麻呂の女がいたとすることもできるかもしれない。仲麻呂は698年(701年の説もある)の生まれ。ということは遣唐使に派遣された717年は19歳、あるいは16歳ということになる。ひょっとしたら・・・なんてことも考えられないではない(私なんかは御蓋山が春日野にあることから伊勢物語の冒頭部分をついつい想起してしまう)。

が・・・可能性としてもう少し確実そうな考えは次の一節から導かれる。

ママ山安ママ氏の社の北の高山の半中に始めて和銅元年二月十日戊寅に山峯に一伽藍を造る 即ち天地院なり

東大寺要録・巻四諸院章

東大寺要録は東大寺の寺誌で、平安時代末の書物。この記事を信じるならば、御蓋山には安倍氏の社があったことになる。御蓋山近辺は安倍氏ゆかりの地であったことになるのである。仲麻呂はこの国の未来をしょって立つべき学才・技量を身につけるため唐へと渡る。そしてそれは安倍氏一族の将来を担いたつことでもある。そんな仲麻呂が一族の祀る神に、何らかの誓願を立てに赴いても何の不思議もない。そしてそれが・・・遣唐使一同が「蓋山之南において神祇を祠」った「二月壬申朔」である必要はない。そんな思いで見た月であるならば、きっと忘れがたい月であったはずだ。

あるいは・・・一族の氏社であったならば、ことあるごとに仲麻呂はこの地を訪れていたと考えられる。であるならば、この御蓋山上の月はなじみの月であったとも考えられる。ましてや、その社の祭礼が月々の15日にあった・・・なんて考えると、その可能性はますます高まってくる(これは・・・かなり眉唾かな?)。

他にも、この歌に詠まれる「みかさ山」は大和盆地北東に聳える「みかさ山」ではなく、九州にあるものだとする説もあったが、大和に起居する私にとって、そのような学説はあんまり考えたくはない(笑)ものであるから、今回は考察の対象から外した。

とにかく、いくつかのサイトで知りえた情報により、以上のような可能性を示してみた。それ等のリンクを以下に示す。

「春日なる三笠の山」と遣唐使 ―阿倍仲麻呂「遣唐1300年」を迎えて

「神域、仏教の聖地(聖域)としての春日山」

加えてもう一つ。上にもちょっと書いてあるが、本年は仲麻呂が唐に派遣されて丁度1300年になる。記念して以下のような動画が作られた。これを紹介し、今日はキーボード(筆?)を置く。