思い出す味・・・お好み焼き

関西に住んでいる限りお好み焼きという食べ物との縁は切ることができない。休日の昼にちょいとお好み焼き屋に寄ることもあれば、家のホットプレートで、それこそお好みに具材を入れて・・・なんて形でビールを飲むこともしばしばである。

ところで、関西の地にあっては、町のあちらこちらに見かけるお好み焼き屋さんであるが、私が生まれ育った東北にはとんと見かけることはなかった。すくなくとも私が大和に出てくるまでは・・・けれども、それまでお好み焼き的な要素を持ったものを食したことがなかったかというと必ずしもそうではない。

その一つが「ベッタラ焼き」なるもので、兄がストーブの季節になると、そのストーブの上にフライパンをおいて焼いていたものだ。「ベッタラ」とは多分「平たい」という意味であろう。「平たい」状態を私たちの地方では「ぺったらこい(或いは、ぺたこい)」と言っていた。

さて、兄の作る「ベッタラ焼き」なる食いものであるが、まずはフライパンにどろどろに溶かした小麦粉(純粋に小麦粉のみである)にざく切りのキャベツを混ぜて焼く。焼いていない側・・・すなわち表面がある程度乾いてきて、ぷつぷつと泡が出てきたらひっくり返す(ホットケーキと同じだね)。これでしばし焼けば出来上がりである。これを皿に移してウスターソースをかけ回して食べるのだが、常に腹を空かせていた時分であるから、こんなものでもなかなかおいしいものだ・・・とは思っていた。

そしてもう一つ、お祭りの屋台で売っていた「お好み焼き」(あえてカギカッコで表記する)なる代物である。小麦粉を溶かしたもの(ダシでといてあったかは定かではない)を鉄板の上で薄い円形(20㎝強の大きさ)に焼く。。、そこに青のりやら削り粉を散らしたものを割り箸にくるくると巻き付け棒状にしたものも、お祭りのたびに食べていたものだ。

このようなお好み焼き的なものを食してきた私が初めて関西風の本格的なお好み焼きに出会ったのが中学校の3年生の時であった。6月・・・これははっきりと記憶している。なぜならば、だいたいどこの地域でも同じだと思うのだがいわゆる教育実習なるもので大学生の実習生の方がそれぞれの実習校に赴くのは6月。我が母校である鳴瀬第2中学校の校門前にその店が出来たのが、その教育実習の真っ最中であったからである。

店の名前は望洋荘。新たに出来た民宿であった。そしてその1階の食堂部分でお好み焼き屋さんとしてオープンしたのであった。お好み焼きの値段は一番安い豚玉・イカ玉で200円。私が大学に入るために大和に出てきたのはその4年後。大和での相場は豚玉・イカ玉で350円であったから、4年という時間差を考えてもかなり安かったと思う。

 

けれども・・・その頃の中学生にとってはその200円だってかなりの高額であった。けれども・・・地域になじみのないお好み焼きという食べ物を定着させるため、お店の方は最初かなり頑張っておられた。

そう・・・開店記念サービス価格というやつだ。その対象はもちろん豚玉とイカ玉。値段はなんと50円。学校帰りに腹を空かせていた私たちはさっそく関西伝来の新しい味に早速飛びついた。今こうやって関西に住む私が太鼓判を押せるほど、純然たる大阪風のお好み焼きであった。表面はサクッと焼き上がり、その内部はややとろっとした(いや、フワッと言った方がいいかもしれない)円形の物体に、どろっとしたお好み焼きソースがかかっている。あの甘酸っぱいお好みソースの味が食べ盛りの中学生たちに受け入れられないはずがない。そして、その味は中学生の口からその親たちに伝えられ、結構な繁盛をし始めた。

ただ・・・そんな破格のサービスをいつまでもできるはずがない。ほどなく豚玉とイカ玉は本来の価格にもどってしまった。これでは中学生たちが気軽に行けるはずもなかった・・・が、お店のおばちゃんはやや失望の色が隠せない私たちに、この店にこんなふうにお客さんが来てくれるようになったのはあんたらのおかげだと、私たちが中学生でいる間、しかも中学生たちだけで来ているときに限り、開店記念のサービス価格を継続してくれたのである。

その心意気やよし・・・である。

ところで・・・ここまで読んで皆さんは「はて?」と思われたはずである。

東北の海辺の一寒村に、なぜそんなに本格的なお好み焼き屋が出来たのか・・・と・・・

聞けば、お店の方々は我が大和の郡山という町に暮らしていたのだそうな。そちらでなにがしかの料理店を営んでいたらしい。奥さんはバリバリの関西弁(これは何年経ってもそのままであった)でよくしゃべる、気さくな典型的な大阪のおばちゃん(奈良の方ではあるが)であった。そして・・・ご主人は寡黙な料理人で、あまり話をする機会はなかったが、この方が我が郷里の出身だというのだ。

どんなきっかけでそのご主人が大和で料理屋を営むようになったかは知らないが、そこで奥さんと出会い家庭を築き暮していた。が、ゆえあってご主人がその郷里に戻らねばならなくなった。確か・・・我が郷里、鳴瀬町(現東松島市)に住む親御さんのどちらかが加減が悪くなり、近くで暮らしたくなったのだというような話を聞いたことがある。

移り住むのは良いが、そこで生活をするためにはなにがしかの職に就かねばならない。料理人であるご主人は当然その技能を生かしての職を求めるのが道理である。が、海辺の寒村には彼が働くような料理屋はない。そして・・・彼が料理屋を始めようにも、その店を支えるだけの客が集まることは期待できない。生活を営んでゆくに充分ではないと考えられたのであろう。

けれども・・・我が郷里は夏は海水浴でにぎわい、冬には美味い海産物が食することのできる場所である。民宿を営むには絶好の場所であった。が、だからこそ周囲にはその競争相手が多い。あとから来たものにとっては戦いにくいと考えたのだろう。なにかしら、他の民宿と差別化する材料が欲しいと思われたに違いない。

かくして・・・わが郷里の町は宮城県における・・・いや、ひょっとしたら東北におけるお好み焼きの先進地となったのである。関西では名の知れた「千房」というお好み焼きのチエーン店が仙台の駅ビルにオープンし繁盛を極めたのは、その5年以上も後のことであった。