東女を 忘れたまふな

いやあ、随分と長い間更新を滞ってしまった。別に体調を崩していたわけではない。仕事だって・・・まあ、ほどほどだ。この間、リンクのページに乗っている皆さんのブログには毎日のように訪問させていただいていたし・・・

じゃあ、なぜこんなにあいだがいあてしまったのか・・・

ふと、思い立ってかなり以前に書いた万葉集の1首についての一文に手を入れだした。前はあまり深いことを考えず思いつくままサラサラサラと描いたのだが、いざ手元の注釈書やらを眺めながら手を入れ始めると、これがなかなかのことで・・・大方は2週間前には出来上がっていたのだが、どうにも皆さんにお示ししていいものやら、自信がない。あっちを少し変えて、こっちを少し・・・という具合にしていたら、これだけ間があいてしまった。が、これ以上皆さんをお待たせするわけにはいかない(待ってない 待ってない 笑)。まあ、時間をかけたからと言って以下に記すことが、皆さんに自慢できるようなものであるかというと、そんなことがあるはずはない(それだけは自信を持って言える)。けれども、まあお笑い種に・・・


藤原宇合ふじわらのうまかひの大夫まへつきみ遷任してみやこに上る時、常陸ひたちの娘子をとめの贈る歌一首

庭に立つ 麻手あさて刈り干し ぬのさらす 東女あづまおみなを 忘れたまふな

庭に生えている麻を刈り取ったり、その麻で織った布を曝すような東国の田舎女でもお忘れにならないでください。

常陸娘子・万葉集四・521

・・・庭に立つ・・・「庭に茂った」の意。「庭」は家の前の空き地で、作業場になったり、季節によっては畑にもなったりするような場所。

・・・麻手・・・麻のこと。「手」は製品(布)としての「麻」に対し、原料としての、刈り取るべき対象である「麻」をいう。

・・・布さらす・・・漂白するためにおった布を陽光にさらすこと。

・・・東女・・・東国の女。これから宇合が、都で出合うような洗練された京女に対して、麻を刈り取ったり布をさらしたりするような東国の田舎娘の意。「東 アヅマ」は大和から見て東方の東方にある諸地域のこと。単に方角を示す「ヒガシ」とはあくまでも別の意味を持った言葉。藤原宇合がその編纂にかかわったともされる常陸国風土記にもその冒頭に、

古は、相模の国足柄の岳坂より以東の諸の県は、惣べて我姫あづまの国と称ひき

とある。また日本書紀の景行天皇40年、日本武尊やまとたけるのみこと東征の話の中で、尊が東国を平定された後、碓日嶺(碓氷峠)に登って亡き妻(弟橘媛おとたちばな)を思い、「吾嬬あづまはや・・・」とつぶやく。その後に「かれ、因りて山の東の諸国をなづけて吾嬬国と曰ふ」とあることは皆さんご存知の通り。とすれば、「アヅマ」は足柄峠(東海道上)と碓氷峠(東山道)を結んだラインより東と考えるべきか。ただし、万葉集にあっては、東国の人々の歌、「東歌」は東海道の遠江と東山道の信濃より東の国々の歌を指す。さらにまた日本書紀に天武元年6月条に、壬申の乱の際に天武が「東国に入りたまふ」とある。この時天武天皇移動経路を考えれば東海道上では伊賀、東山道上では美濃より東が「アヅマ」ということになる・・・。

さて・・・藤原宇合は719年に常陸国にその国守として、そして安房・上総・下総3国の按察使あぜちとして東国に向かった。2年後の721年に一挙に四階昇進して正四位上となり都に戻る(おそらく前年の父不比等が薨去したの当たってことかと思われる。)。この歌はその折の作かと思う。藤原不比等の三男で、尊卑分脈には「気宇弘雅、風範凝深、博覧墳典、才兼又文武矣」と評された傑物である。作者の常陸娘子については詳しくはわからない。この地域の遊行女婦あそびめではないか、というのが一般的な考えである。常陸は現在の茨城県に相当する地域。現在の石岡市に国府跡がある。

常陸に赴任したとき、彼は25才。政権トップにあった不比等の御曹司宇合は東国の女にはことさら眩しく見えたに違いない。けれども、別れの時はやってきた。彼はいずれ都に帰らねばならぬ身。それを彼女はよく知っていた。そして、自分はそれについては行けない身であることも・・・

・・・知っていたはずなのに、いざその時になると簡単に割り切れるものではない・・・あの人は都に去ってしまう。こんな田舎娘なんて都の華やかな女達から見ればとるにたらないはず。きっと忘れられてしまう。けれども、あの方と過ごしたこの2年は紛れもなく真実。そんな簡単に忘れて欲しくはない・・・そんな思いが彼女の胸中によぎったのであろう・・・「庭に立つ 麻手刈り干し 布さらす 」はおそらく誇張で、藤原氏の御曹司と関係を結んでいる以上、そんな身分の低い女であることはなかっただろう。けれども彼女はそんな自分を宇合と引き比べた時、このように表現せざるをえなかったのだと思う。東国の女のせめてもの願いが「忘れたまふな」である。

さて、その願いを宇合はかなえたのであろうか・・・・忘れてしまっていたのなら、この歌は現代には伝わらず歴史のあわいに消えてしまっていただろう。こうやって現代に生きる我々がこの歌に触れることが出来るということは・・・

・・・というのは、いささかロマンチックな解釈にすぎるが、歌に書かれてある言葉をそのままに受け取れば、この理解はさほど考えすぎというほどではない。が、この歌の作者については素人女ではなく遊行命婦と呼ばれた遊女ではなかったかとも言われている。もともとは神を祭るために外出する巫女である。万葉集の時代にあっては芸能者としての性格を強く、漂泊しながらその芸能を売り、なかでも特にすぐれた遊行女婦は公の妓として国庁や大宰府の専属(おそらくはこの歌の作者も)となったり、また貴族の家にも出入りしていたことが知られる。

国守などが任終えて都に帰ろうとするときに、遊行女婦が名残を惜しんで歌うことはそう珍しいことではなかったようだ。大伴旅人は太宰帥の任を終えて都に帰ろうとするとき、「娘子(後の旅人の歌によりその名が「児島」であることが分かる)」から次のような歌を贈られている。

おほならばかもかもせむを畏みと振りたき袖を忍びてあるかも

大和道は雲隠りたりしかれども我が振る袖をなめしと思ふな

万葉集巻六・965/966

これに対し旅人の返歌は

大和道の吉備の児島を過ぎて行かば筑紫の児島思ほえむかも

ますらをと思へる我れや水茎の水城の上に涙拭はむ

大伴旅人・万葉集巻六・967/967

というものであった。旅人はこの太宰府下向に当たって糟糠の妻を伴っている。そして、その地にて妻を失った。任終えて都に帰る際、旅人は亡き妻を思い何首かをものするが、その一つ一つが哀切極まりなく、そんな思いにあった旅人が、ここで児島なる女性と深い情を交わしていたとは思えない。してみれば上の4首は送別の宴に際しての儀礼的なやり取りに他ならないのではないか・・・と思われる。そして他にも同様の作はいくつか見受けられる・・・という状況から類推すれば、この歌も都に帰る宇合に対する儀礼的な一首であったことは否めない。

とは言え、歌の持つ可憐な味わいにはやはり胸打つものがある。恐らくは見目麗しかっただろう乙女からこのような歌を贈られた宇合は悪い気がしたはずはない。