榛原だより・・・駅前にて

職場の最寄り駅である榛原駅に行った。車で通勤しているため、あまり駅には用はなく、昨年の4月に今の職場に赴任して以来初めてのことだと思う。30数年前、同じ職場に勤めていたのだが、そのときは電車での通勤だった。だから、その時気付いても良かったものだが・・・

こんなものがあるとは、ついぞ気付かずにいた。

鳥見山中靈畤阯
                                                                 北二十丁

とある。結構年季の入った石碑であり、私が以前この駅を利用していたときもあったはずだが、とんと気がつくことなくいた。鳥見山中靈畤については以前少しく触れたことがある。

榛原だより

で・・・今回ご紹介したいのは・・・これ。

先の道標を東側から見たものだが、

肇国聖蹟 墨阪神社

               東六丁

とある。

墨坂神社はこの道標にもある通り、榛原駅から東に10分ほど歩いた場所にある神社で境内の由緒書には

神武天皇御遷都の砌大合戦の墨坂 の地に祭祀せられていた大神でそ の地名を称号し墨坂大神と申して いる。崇神天皇の御代(西暦三八〇年) 国中に疫病が蔓延したため赤盾、 赤矛を幣帛として御勅祭せられ又 天武天皇白鳳元年(西暦六七三年)に大來 皇女を使者として奉幣されたとも 伝えられている。
文安六年(西暦一四五〇年)に墨坂から現在 の地に遷都された。
本殿は元治元年(西暦一八六四年)御造営に 際し南都春日大社の旧本殿を拝領 し建造したものである。

「玄松子の記憶」さんよりの孫引き

とあるらしい。

あるらしい・・・というのは、いささか頼りない物言いだが、実は私はまだこの古社にお参りしたことはない。職場から車で5分とかからない場所にあるというのに、その身近さゆえにいつでも行ける、という気安さのために先に先にと伸ばしていた結果である。だから詳細は実際にお参りしてから報告することとする。今回は他のサイト(「玄松子の記憶」)からの孫引きということで勘弁していただくことにする。

そしてもう一つ。

宇陀市界隈の観光マップである。これはかなり新しいもので、以前私が今の職場にいた時に気が付かなくても当然のものである。

ここに記してあることは大体は承知済みのことであったのだが、ひとつだけ「おっ、こんなものが・・・。」と思った場所が一つ。それは・・・

榛原駅の少し情報に本居宣長先生の肖像があるではないか。宣長先生と榛原とどんな関係が・・・と私は思い家に帰って早速グーグル先生に「宣長 榛原」の検索ワードでおうかがいを立てて見る。するとさっそく松阪にある本居宣長記念館のホームページにある「榛原 油屋」という記事にたどり着く。詳細はそちらに当たってもらった方がいいのだが、なんでも宣長先生が大和入りするとき・・・当然ながら松阪の住人であった宣長先生は伊勢街道をご利用になられたのだが、その街道筋にあって宿場町であった榛原では、この「油屋」を利用になられたのだという。先生の門下生でかつ後に養子となった本居大平の「餌袋日記」には次のようにあるそうだ。

「この宿れる家は、ことにあまたの旅人を宿す家にて、そのあるじすとて、かなたこなたと若き女どもの物など持てありくもらうがはし、茶などのまむとて、手うちならせば、はるかにこゑうちあはせて、あいとしりながにいらふるもをかしう、やがてたすきうちやりて持ていでたるに、猿楽ことなどいへば、うちわらひつつ、まけじといひしらふず、かかるわざにのみなれたるなるべし、大かた大和の国はあやしき菜摘むしづの女、薪こる山がつといへど、物いひぞいとみやびたりける、わがいせの国などくらべ思へばいときたなし、さりとてはたなまなまにまねびいはんは中々なり」。

上記記事より引用

そして・・・このことを念頭に置いて、上のマップをじっと見つめると、宣長先生のその足元に「あぶらや」と書いているではないか・・・

こんな大事なことを今日の日まで知らずにいたこと、三友亭主人一生の不覚。これは是非とも足を運ばなければ・・・と思いつつ、この日はまだ勤務中。「あぶらや」には足を運ぶことなく、泣く泣く職場に戻った。

こちらも近日中に尋ね、詳細な報告をしたいと思う。