古書、ふたつ・・・

先日、ちょっとした宴席があり天理の町まで出かけた。久しぶりにその駅前にある古書店にでも行こうと思い、ちょいと早めの電車に乗った私は、集合の時間より1時間早く天理の駅に着いた。さほど大きくはない古書店の店内の隅から隅までを眺め尽くすにはちょうど良い時間である。
そしてそこで見かけたのが次の2冊。

おうふう 「古事記」 西宮一民

筑摩書房 「詩の自覚の歴史 遠き世の詩人たち」

どちらも以前は私の書架に並んでいた一冊である。

おうふうの「古事記」は今でも並んではいる。学生の頃、その校訂者である西宮一民先生のご講義のテキストとして、やはり古書店にて手に入れたものである。本来ならば新本を購入し、講義に臨むのが、これから一年お世話になる・・・そしてその校訂者である西宮先生に対しての礼であるのだろうが、先生はそのあたりはまことに無頓着な方で、「古本でも何でもかまいませんよ」と、その最初の講義の時におっしゃってくださったので、当時かなり懐の寂しかった私は、遠慮なくそのお言葉に甘えさせていただいた。たしか・・・大阪難波は天牛書店での購入だったかと記憶する。

その時からすでに何人かの手を通り抜けてきた一冊と見え、複数の手になる書き込みが確認される。おそらくは当時の私のように大学での講義のために購入され、1年が過ぎ売却され、さらに次の方が講義のために購入し、また売却される・・・ということを繰り返されたものと見られる。そして最終的に私に購入され、今に至るというわけだ。

人によっては、書き込みのされたような古書はどうにも手に取る気になれないというような方もいるようだが、私などは一向に気にならない。むしろ・・・その書き込みが少々楽しみでさえある。ある箇所に施された書き込みを見ては、「おや・・・これは○○先生のお説」「これは××先生のお考え」(あくまで自分の知っている範囲のみであるが)などと思いつつ、「してみれば、この筆跡の、かつてのこの一冊の所有者は△△大学の学生・・・?」「この筆跡の所有者は□□大学の・・・」などとあらぬ想像をしてみたり、時々はまるでピント外れな内容の書き込みや傍線を見て、「???」などと考え込んだり・・・というような楽しみ方をしている。むろん、この一冊は西宮先生の講義の際には必ず私の目の前にあったわけだから、私の書き込みも当然ある。これから何十年か経って私の後に誰かの手に渡った際に、その新たな所有者に私の施した書き込みが「???」という思いをさせる可能性も当然ある。

そんな一冊があるのに、なぜ新たに購入したのかと言えば・・・たいした理由でもないが、かつて「桜風社」と名のっていたこの書店が「おうふう」と社名をあらため、新たにその装丁をあらためたこの一冊が思いのほか安価で並んでいたので、この際もう一冊買ってもいいか・・・と思ったからに過ぎない。出来れば・・・以前から我が書架に並んでいる一冊の、件の書き込みを取捨選択し、今度購入した一冊に書き写してみたい・・・と思っている。後々の人が「???」とお思いにならぬようにである。その際には・・・当然、私の前の所有者の書き込みもその取捨選択の対象とすることとし、私が施したであろう書き込みとは区別できるようにしたい。

ところで・・・西宮先生のご講義は・・・ということにもなろうが、残念ながらそこには40年近い年月が横たわっている。しかもノートすら残されてはいない。そこで先生がお教えくださった事柄は、私の貧弱な国語学、あるいは上代文学についての知識のかなりの部分のベースとなっているとは思うのだが、それのどこからどこまでが西宮先生が教えてくださったことなのか定かではない。ただ覚えているのは・・・

電車に乗っていたら雪が降り出し、向かいに座っていた子供が「雪やこんこ、霰やこんこ」と歌い出したので「こんこ」の意味について考え込んでしまったこと

とか、

若い頃一緒に仕事をする機会があった某国語学の大家の先生(こういったらどなたのことかは分かる人にはわかる)がとても肉が好きで、肉を食えば俺もあんなふうに仕事が出来るのかと思い、まねをしたら体を壊してしまった・・・

とか・・・そんな話だけである。まことにもったいない話である。

続いて・・・筑摩書房の一冊。

これは、もう私の書架からはとうの昔に姿を消していた一冊である。売却したわけではない。誰かに貸して・・・そのままになっているだけである。確か・・・高橋和巳だったかがこのような状況を「書物の平和的な強奪」などと言う言葉で表現していたような記憶があるが、まあよくあることだと思うので貸した相手を恨むような気持ちはない。だいたい誰に貸したのかどうかすら、しかとした記憶はない。気がついたら私の書架から消えていて、ぼんやりと誰かに貸した記憶が残っているのみである。書物は・・・それが優れた書物であればあるほど、多くの人の手を渡り歩くものである。ただ・・・その際の手続きが正当なものか、やや脱法的なものかの違いである。

そして・・・再び山本健吉の名著は、かなりの安価で私の目の前に現れた。購入しない手はない。これが運命というものだ。山本健吉はご存じの文芸評論家。師匠は折口信夫で古典文学への造詣は深く、特に柿本人麻呂・世阿弥・芭蕉あたりについての言説が目につく。「詩の自覚の歴史―遠き世の詩人たち」はまさにそんな一冊で、若い頃の私は、殊に万葉集に関しての氏の言説にはずいぶんと刺激を受けたものである。文芸評論であるから、いわゆる学術研究とは立場を異ならせており、そのまま氏の発言を学問の中に持ち込むことは出来なかったが、詩の古典文学に対する真摯な眼差しと深い理解に、初学の私は圧倒されたものである。

ともあれ・・・新しい仲間が我が書架に仲間入りする。今はまだ枕元に置かれているが・・・さてさて、この一冊はあの本の隣に、この一冊はあの本の隣に・・・と、その位置を考慮中である。