萬葉一日旅行・・・2018  その2

午前10時・・・

それがこの日の集合時間だ。ただ、駅が集合ということもあり10時を過ぎて間もなく駅に到着する電車に乗られた方も待つ余裕がある。

ただし壺阪山駅はそれほど大きな駅ではない。もうすでに50名に及ぼうとしていたこの日の参加者には、この駅の前の広場は狭すぎた。

ということで、一同は駅裏にある忠魂碑前の広場に移動する。

そこで待つことしばし。いよいよ萬葉学会一日旅行の開始である。まずは1968年以来長く途絶えていたこの催しが7年前に復活した時の学会代表でいらっしゃったS先生のご挨拶。中断以前のこの行事のことや、復活させるに至った経緯、そしてこのような営みが現場性の極めて高い万葉集の理解にいかに意義深いことなのかについてのお話しであった。

次に本日の案内役をお勤めになるD大学のK先生による日程の説明。

・・・と、その最中である。件の忠魂碑のわきの草原から急に飛び出してきたもの。

キジである。まさか、これから向かう先に「紀路(キジ)」があるからではあるまいが・・・ちょいとびっくりした。キジさんは50名を超える人間の群れに臆することもなく、悠々と西に向かって歩き去っていた。

そこでふと思い出したこと。私がこの近くに職場を持っていた時、私の同い年の同僚にレスリングでアジア大会で優勝したことがあるという猛者がいた。当時彼はまだ現役であったから、毎朝勤務に入る前にトレーニングの一環としてのランニングを欠かさなかった。そんなある日、彼は職場のフェンスに首を突っ込んで動けなくなっているキジさんを発見する。彼は思う・・・「このままではこのキジは死んでしまう。こんなところで、こんな無様な格好で死んでしまうのは余りにもかわいそうだ。」・・・ということで彼はそのキジをやさしく抱え、フェンスからはずした・・・・

そして、その日の彼の夕ご飯は・・・キジ鍋であった。

むろん、いくら大食漢のレスリング選手といえど、キジを丸々一羽は食べられない。その食卓には私も同席していた。そして、多彩な人材がそろっていたその職場には剥製づくりの達人もいた。この時私たちの血肉となったキジさんの姿は今もその職場に飾られているはずである(ちょいと自信がないかな・・・すくなくとも、私がその職場を離れて10数年後に聞いた時には「まだあるよ」ということだった。)

さあて、出発である。

鳥ヶ峯とりがみね古戦場である。場所は先ほどの広場から西に200mほど。後ろの建物は高取町の地域包括支援センター。隣には町役場があり、どうやらこのあたりが高取町の官庁街であるらしい。このあたりの地名は高取町薩摩。なぜ、薩摩なのか、ちょいと気になるところだが、ここは先を急ぐので詳細は割愛(こう書くと知っているのに省略したように見えてしまうが、実はよく知らないからの省略である)。

鳥ヶ峯古戦場は幕末の古戦場。とはいっても、よくわからない人の方が多いと思うので今回いただいた資料にあった「日本歴史地名大系」の記事を以下に示す。

文久三年(一八六三)八月一七日、現五條市にあった五条代官所を急襲した天誅組は同二五日、五条新政府追討のため紀州·郡山·高取各藩出兵という誤報に接し、五隊を編成、吉村虎太郎は遊撃隊を編成、現御所ゴセ市方面の郡山勢の探索に当たった(大和日記)。同二六日早朝に木辻きのつじまで進出、鳥ヶ峯において高取藩兵に敗北、大口おおくち・風ノ森峠・重阪へいさか峠(現御所市)を経て五条に敗走。吉村虎次郎は高取城夜襲を決意、約二〇人が高取城下焼討ちをねらったが薩摩村で負傷、五条に後退。鳥ヶ峯は嘉永二年(一八四九) の小前田畑名寄帳(薩摩区有文書)には「取がミね」「飛ケ峰」と記し、土佐村・観覚寺かがくじ村・薩摩村の飛地で土佐街道をにらむ高台地である。明治三年(一八七〇)高取藩がここに調練場を設けた。

(カタカナの振り仮名は三友亭主人によるものである)

さらに奈良県外の方にとっては上の文章中の天誅組っていうのも「?」の方も多かろうと思う。この天誅組について「特定非営利活動法人 維新の魁・天誅組」という組織のホームページに詳しいので、そちらを参考にしていただければと思う。

http://www.tenchugumi.jp/index.html

いっこうはさらに西に進む。そして・・・とうとう、南北に走る紀路に突き当たった。

紀路は大和より紀州へと抜ける道。

上の写真は大和方面、これからの進行方向である。下の写真が紀州方向で中央部に山肌の地面が露出している部分があるが、その下のあたりを抜けて行くらしい。