萬葉一日旅行・・・2018  その4

この日の案内役であったK先生のこの場所での説明は、ごくあっさりとしたものだった。そのわけは・・・次の場所でわかる。

なんて思わせぶりな物言いで前回の分を閉じた。むろん、K先生のご説明がなおざりだった、なんてわけではない。ただ・・・この御陵が言われているように草壁皇子の御陵であるならば、草壁皇子についてもう少し詳しくお話しくださっても良かったのではないか・・・そんなふうに思われたからである。

前回述べたように草壁皇子は天武天皇と鸕野讚良うののささら皇女(後の持統天皇)の間に生まれ、日並知皇子と称され、さらには後の皇統の祖として岡宮御宇天皇おかのみやにあめのしたしらしめすすめらみことと追尊されたほどの人物である。一説によれば、この皇子を皇位につけるために母である鸕野讚良うののささら皇女は姉である太田皇女と天武天皇との皇子、大津皇子を退けたともいわれるている。

大津皇子と大伯皇女

そんな人物の御陵の前にあって、もう少し詳しく説明があってもいいんじゃあないか・・・そんなふうに感じられたのである。事実、当日配布された資料には草壁皇子の作と万葉集に伝えられる

日並皇子尊ひなみしのみこのみこと石川郎女いしかはのいらつめに送り賜ふ御歌一首  郎女、あざな大名児おほなこといふ

大名児を 彼方野辺をちかたのべに 刈るかやの 束の間も 我忘れめや

万葉集巻二・110

も載せられているし、草壁皇子が薨去した際の柿本人麻呂の挽歌や、皇子に仕えていた舎人たちの働傷歌だって載っている(全部載せると大変なのでここは割愛)。さらには草壁皇子の薨去の数年後、その皇子であるかる皇子がその父を追慕するため宇陀は阿騎野の地で遊猟した際の柿本人麻呂の一連の歌だって載せられている。

軽皇子、安騎野に宿る時に柿本朝臣人麻呂の作る歌
やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 都を置きて 隠口こもりくの 初瀬の山は 真木立まきたつ 荒き山道やまぢを 岩が根 禁樹さへき押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉限たまかぎる 夕去り来れば み雪降る 安騎の大野に 旗すすき 小竹しのを押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて

短歌

安騎の野に 宿る旅人たびひと うち靡き らめやも いにしへ思ふに

ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉もみちばの 過ぎにし君が 形見とぞ来し

ひむかしの 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ

日並ひなみしの 皇子のみことの 馬並うまなめて み狩り立たしし 時は来向ふ

万葉集巻一・45~49

長い引用ではあったが、この一連の歌だけは省略できない。あまりにも有名な1首

ひむかしの 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ

を含んだ歌群であるが注目は、この一連の結びともいうべき最後の歌、

日並ひなみしの 皇子のみことの 馬並うまなめて み狩り立たしし 時は来向ふ

である。

この歌で、草壁皇子は「日並ぶ 皇子の命」と歌われているが、「やすみしし 我が大君」と歌い起こした長歌に始まり、「時は 来向ふ」の歌いおさめに至るまで、途切れなく時間は進行する・・・けれども、最後の一句の「時」とはまさしく、今を幾年さかのぼるか知れぬ「過ぎにし君」が「馬並めて み狩り立たしし」時である。この一連の歌は時間の進行に従って歌われてはいるものの、歌人、柿本人麻呂の内面は・・・それに並行して過去へと遡ってゆく。だから、極端なことを言えば、この1首のためにそれまでの歌はあったとさえも見て取れる。それほど作者柿本人麻呂の思いの中心は草壁皇子にあった。

草壁皇子の母が持統天皇、文武天皇 はその息子、その後に続く元明天皇はその妻、元正天皇はその娘・・・万葉集はこの皇統を取り巻く人々中心に形成された歌集であるとする考えがあるが、これに従えば、草壁皇子は万葉集にとってなくてはならない人物のはずである。萬葉学会の1日旅行において、そんな大事な方の御陵の前にあって、この皇子についての説明がこれだけで終わるのか・・・というのが、その時の実感であった。

が・・・理由は次の見学地にあった。

一行はさらに北進する。少々入り組んだ佐田の集落の中を通り抜け、御覧のような石段に行きあたる。

写真ではあまりわからないが、この石段は結構長い。気温が高かったこの日、石段を上り詰めると少々汗ばんでしまう。そして行き当たったのが御覧のお社である。

佐田束明神つかみょうじんである。ここまで申し上げれば、大方の方はここまでくだくだと私が述べきたったことの狙いはお分かりであろう。この日の我々一行の目的は、この神社の一角にある次の古墳である。

ちょいと大きめの土饅頭にしか見えない盛り上がりではあるが、純然たる八角墳である。真弓の丘陵地帯の一部をなす佐田丘陵(丘陵等の突端部を「サダ」という説あり)の斜面を削って作った直径40mほどの平坦な地に4mほど土を盛り上げて作ったこの八角墳は、その対角線が30mに及ぶ。1984年の県立橿原考古学研究所の調査によれば、その石槨は内径が長さ約 3m,幅 2m,高さ 2.5mの規模で、唐尺および黄金分割が使われていたと推定された。遺物にはわずかではあるが、木棺の破片と考えられている漆の膜、金銅製の金具、釘などが出土。他にも青年期から壮年期の人の歯が見つかったという。また発見された金具の中には高松塚出土品に類似するものもあったという。

高松塚出土品と類似する・・・という点を考慮すれば、その被葬者がかなり高貴な人物であることが分かるが、さらにこの墳墓が八角墓であることを考えると、その被葬者はどうしても皇族ということになる。一部に異論はあるが、八角墓は、道教等の代中国の政治思想において、八角形が天下八方の支配者にふさわしいという思想の影響があると考えられるからである。

となれば・・・この時期の皇族で、被葬者にふさわしい人物はいないか・・・ということになる。そこで旗と気になるのが「青年期から壮年期の人の歯が見つかった」という事実である。これは早世した草壁皇子を髣髴とさせる事実である。さらには地元には古く、この墳墓が草壁皇子の墓であるとの伝承があったが、江戸末期に皇族の陵が次々と比定されてゆくにあたり、それを避けるために墳丘および石槨が大規模に破壊されたのだという話も残っている。

さらには先ほど割愛させていただいた「皇子尊の宮の舎人等が慟傷して作る歌」、全24首の中には「朝日照る佐田の岡辺」(巻二・177/192),「佐田の岡辺に待宿しに行く」(巻二・179)、「つれもなき佐田の岡辺」(巻二・187)とその墓どころが詠まれ、さらにはその墓どころは「つれもなき真弓の岡」(巻二・167)とも表現されている・・・てなことを考え合わせた時、この束明神塚古墳こそが草壁皇子の御陵である・・・という可能性はかなり高いと言えるように思う。

ここまで述べれば、前回の岡宮天皇陵にあってK先生の草壁皇子についてのお話が「ごくあっさりとしたものだった。」理由ははっきりしよう。そう、全てはこの束明神塚古墳でお話になられる予定であったのである。だから、そこで話された草壁皇子に関してのお話しに、私が充分に満足したことは言うまでもない。

ところで、私がこの束明神を訪れたのはこれが初めてではない。今から30年ほど前にこの近くに職場を持っていた私は、お世話していた若い人々と共に、当時新聞で話題になった束明神をめざした。与えられた時間は1時間。少しの時間のロスも許されない。私は田んぼのあぜ道、茂りに茂った茂みを抜ける直進コースを選んだ。若い人たちも良くついてきたものである・・・一同は漏れることなく束明神の前に立っていた。

・・・ただ惜しむらくは、その時の私(もちろん今も)が居合わせた若い人たちにK先生のようなお話が出来なかったことである・・・まあ、ある意味、当然といえば当然なのだが・・・