卒業論文を書いていたころ  (その4)

万葉集において他からの働きかけがあったり、他者の詠歌に接したことを契機に読まれた歌の題詞・左注には、「こたふ」と読むべき「和」「報」「答」などの文字が使われている。これを文字ごとに整理してみると以下のようになる。

和53 追和16 奉和12 敬和4  贈和1

報16 報贈16

答11 贈答2 送答1 問答1

混用されたもの

報和1 報贈和1

それぞれの後に示した数字は、その使用例の数。ただし、この数自体はどなたかしっかりした方が数えたものではなく、私が調べた数値であるから当然漏れ落ちがある。まあ、大体の傾向ぐらいに考えてもらいたい。

そしてこのうち私が注目し、追い求めた熟語が「追和」である。

が・・・ちなみにその熟語の例は今をもってしても、唐代の後半以降のものしか見つけることは出来ていない・・・

と前回を結んだ。突然の漆黒の闇(前回記事参照)に包まれながらも追い求めたその熟語とは何か・・・それが、この熟語なのである。あまりに幼稚すぎる私の卒業論文の内実をさらけ出してしまうような気がして、気が引けるのだが、「卒業論文を書いていたころ」などという文章をここまで書き継いできてしまったのだから、ものはついでである。ちょいと御付き合いを願う。

「和」が「こたふ」という意味である以上、「追和」は「追ひて和ふ」の意で、先人が詠んだ一首(あるいは何首か)に、「後から『こたふ』」というのがこの熟語の意味であるらしいが、これを大漢和辞典にあたったとき詩林廣記の

追和古人之詩則自東坡始

古人の詩に追和するは則ち東坡より始まれり

という用例に突き当たる。東坡は蘇東坡(1037年~1101年)のこと。この例をそのまま信じるならば、万葉集での「追和」の初出は山上憶良、大伴旅人あたりとみられるから、唐土で「追和」ということが行われるより少なくとも250年以上も前に我が国において「追和」ということが行われていたことになる。

けれども・・・多くを唐土に学んだ我が国において、自らの歌につける題詞・左注は唐土の詩におけるそれを学んだであろうことは容易に想像できる。おそらく「追和」という語を万葉集で用い始めたであろう山上憶良・大伴旅人あたりの人々が唐土の文学に大きな影響を受けていることはつとに知られていることであるから、さらにその可能性は高い。となると、大漢和が見落とした「追和」がどこかにあるはずだ・・・というのが、私が天理図書館の書庫にこもり始めた、そもそもの始まりであった。

そして・・・その数か月後その成果は

「追和」という文字は歌集である万葉集よりもより強く漢籍の影響を受けたであろうと思われる漢詩集であるところの『懐風藻』には見られない。そればかりではなく、中唐以前の詩文にあたっても、管見による限りでは「追和」に文字は見られない(注)。諸橋轍次『大漢和辞典』引用の『詩林廣記』に「追和古人之詩則自東坡始」とあるのによれば唐土で「追和」が始まったのは宋代のことになる。しかし、これにより「追和」に文字が和歌の世界、ひいては山上憶良・大伴旅人達の考案によるものとするのは性急に過ぎるであろう。これも、今後の課題としたい。

注 本稿の調査によれば『全唐詩 李賀1』の「追和何謝銅雀妓」「追和柳惲汀洲白白蘋草」あたりが最も古い。

という一文として結晶した。最後に「今後の課題としたい。」と結んであるが、40年近くの時を経た今でもこの「課題」は「課題」のままである。

ただ・・・この記事を書くにあたってちょいと目に入ってきた文章がいくつかある。次回はその紹介などを・・・と思っている。