卒業論文を書いていたころ  (番外編)

この記事を書くにあたってちょいと目に入ってきた文章がいくつかある。次回はその紹介などを・・・と思っている。

と前回の記事を結んだ。前回の記事は、ざっとまとめてしまえば、卒業論文のテーマとして選んだ「追和」という文字面をあれこれと追い回したが、万葉集以前の用例は結局は見つけられなかった。けれども、どうにもこの熟語が万葉人の創案によるものとは思えないので、どうにか中国の・・・それも初唐以前のもの・・・にこの二文字を探し出すことを、大学を卒業した今でも自らの課題としている・・・というような内容であった。

けれども、仕事に就いてしまえばなかなかそのようなことに時間を割くことはできないし、その数にまるで際限ないかのように見える唐土の古書籍を片っ端からそのページをめくってゆくような場が、大学を離れた自分にはない。あれこれと手をこまねいているのみであった。

が、その後のインターネットの発展が、若干その状況を変えてくれた。どこまで信用できるものか私にはわからないのだが、要領を得ないまま私はあちらこちらの検索サイトをいじくり回した。けれども、思うような用例は出てこない。それらの検索サイトに詳しい方々なら、その結果は違ってくるかもしれないのだが、私の今の力では・・・やはり見つけることができないままでいる。

それで・・・である。

先日、いたずらのように何気なく関連する言葉(その検索ワードすら忘れてしまうほど何気なく)で検索してみたら、島田裕子氏の「大伴家持と梅花の宴」(『 日本文学研究49 号2014年』)というご論文にたどり着くことができた。氏はこのご論文に「追和」についての章を設け、この語について先行する諸賢の見解をご紹介くださっていた。

その章にあって、まず氏は前回ご紹介したところの「個人の詩に追和するのは、ママち東坡より始まれり」との一節を引用され、さらに橋本達雄氏の「大伴家持の追和歌」(『万葉集を学ぶ 第八集』1978年)の一節を引用する。曰く・・・

「追和」とは先人の詩歌に対して何らかの同情・共感を後の人が覚えて和したものをいう。もちろんこのようなことは中国で起こったもの。

なお、橋本氏もこの一節の前に件の大漢和辞典の一節を引用されている(むろん私もその卒業論文には引用している)。この文章は、示しているように1978年に刊行された『万葉集を学ぶ 第八集』の収録されたもの。『万葉集に学ぶ』は法律関係の方々にはまことに有名かと存じ上げる有斐閣の出版物。その法律関係の老舗が何を思われたか、一時期、万葉集関係の書物を・・・しかも、かなり力の入ったものを立て続けに出版されていた。その一つがこの『万葉集を学ぶ』であろうと思う。全8巻のこのシリーズは、これから万葉集を学ぶ人々に向けた入門書で、当時初学であった(むろん現在もそこからほとんど進歩してはいない)私にもきわめてわかりやすい文章がほとんどであったが、執筆された先生方はけっこう力をお入れになったらしく、以後の研究論文にもしばしば引用される文章が多く、単なる「入門書」の域を超えた8冊であったように思う。

であるから、卒業論文に取り組んでいた頃には既に私の目には入っていた。だから、私の「追和」という文字を探し求める作業は、氏のいうところの「中国で起こったもの」という事実を確かめるものであった。

が、見当たらなかったのだ・・・少なくとも初唐以前は・・・

ということは、簡単には「追和」が「中国で起こったもの」とは言い切れないことを意味する。前回も申し上げたとおり、『大漢和辞典』が引用するところの『詩林廣記』の「追和古人之詩則自東坡始」という一節による限りでは、唐土に合って「追和」という行為が行われ始めたのは蘇東坡以降のことになり、万葉集の例は唐土に先行することになる。

それでは、「追和」は万葉人の独創なのか?

それが、やはり常識としては考えにくいことが私の「課題」が「課題」として残り続けていること、上述のごとしである。

次にご紹介くださったのは小野寛氏のの「万葉集追和歌覚書」(『論集上代文学16冊』)である。このご論文は私が大学を卒業してしばらくしてのものであった(出版年は下記の事情により失念。1980年代半ばと記憶する。)が、まだ学生気分の抜けないままであった私の目には入ってきた。氏は万葉歌人たちが良く目にしていたと思われる『文選』や『玉台新詠』、そしてほぼ同時代の詩を集めた『唐詩選』あたりを調査し「追和と題する詩は『文選』詩編にも、『玉台新詠』にも『唐詩選』にも見えない。」(コピーが手元にあったはずなのだが、そのありかを失念。よって、今回は島田氏論文の孫引き。)とし、「和」ならば『文選』詩編に7例『玉台新詠』に31例『唐詩選』に28例あると指摘された。やはり、ここにも「追和」の文字は見えない。

やはり「追和」の二文字は無いようである。

さて、私が直接目にすることができた文章はここまで。次は島田裕子氏のご論文の中で初めてであったもの、大越嘉文氏「『追和大宰之時梅歌新歌』考」(國學院大學論大学院文学研究科論集第11輯 1980年)である。

旅人と憶良を中心とした太宰府歌壇の人々と家持、この両者以外に追和歌は試みられなかったようだ。従ってこの”追和”という行為は万葉歌人にとってかなり特殊なものであった筈だ。この十四例をくわしくみると、同じ追和歌であっても太宰府歌壇の人々と家持の間には明らかに差異が認められる。太宰府歌壇の人々の追和が宴席などでの風流な歌遊びー後世の連歌とも似かよったものであるのーに対して家持のそれは古歌等によって詩的感興をかきたてられた、あくまでも家持個人に由来するものであった。

という一節を引用されている。この論文全体を読んでいるわけではないから軽々しくいえたことではないが、引用部分の要旨は万葉集内に使われた「追和」は大伴家持の父である旅人、そしてその歌友山上憶良、そして大伴家持周辺のものがほとんどであり、しかもその意味合いは父旅人の世代のあり方と、家持ではニュアンスが異なっているとまとめられよう。

私も卒業論文を書くに当たって気がついた事実であり、同様のことを書いた覚えがあるが、このご論文は私が卒業論文を書いていた頃には既に発表されていたものであり、当然私も目を通していなければならないものであった。残念ながら学生時分の私の乏しいリサーチ力はこの貴いご論文を見逃してしまった。もって恥じ入るのみである。

もちろんのこと私の卒業論文にあっても、その目的は名にも「追和」という文字を追いかけることが最終の目的では無く、その二文字のもつ表現のいったんでも解き明かせないかということがその願いであって、氏がこのご論文で書いてあったことはきっと私にとっても有用なことであっただろうと思うのだが、今回私が述べ来たったところとはやや方向が違うので、大越氏のご論文についてはここまで。

私が特に島田氏の文章にあって注目したのは、ご論文で紹介された中尾健一郎氏のご指摘である。

加えて「追和」について、家持の「追和」が確実に中国の影響を受けているとはいえない

論文本文にあっては、以上のようにあっさりと示されているのみであるが、氏の発言については、論文の後に添えられた注の五にて詳しく説明されている。

梅光学院大学第303回日本文学会で「大伴家持と梅花の宴」を研究発表した後、中尾健一郎氏から、初唐以前の中国にも「追和」と思しき用例があるとの指摘を受けた。同氏によれば、南朝陳の陰鰹(生卒年未詳)に梁元帝(508ー554)の「登江州百花亭懐荊楚詩」(『藝文類聚』巻28、人部・遊覧所引)に唱和した「和登百花亭懐荊楚詩」(同前)があり、『文苑英華』巻315は詩題を「追和登百花亭懐荊楚」に作る。「文苑英華」所収の梁元帝詩には、「以下三篇並見江州石本」(以下三篇、並びに江州の石本に見ゆ)の注記があり、「和登百花亭懐荊楚詩」に収める元帝、朱超道、陰鰹の三者の詩は北宋以前の拓本に由来することがわかる。しかしテキストの問題もあり、また家持が行っているような先人を偲ぶ内容の「追和」とは異なるのでこれを家持以前の用例として揚げるのは少し無理があるという。

というのがそれである。『藝文類聚』に収められている「和登百花亭懐荊楚詩」が『文苑英華』では「追和登百花亭懐荊楚」となっているというのだ。『藝文類聚』は武徳7年(624年)に歐陽詢らが、高祖の勅を奉じて撰したもので、万葉集の原資料の一つである類聚歌林の編纂の際にも大きく影響を与えていた書物であるから、ここに「追和」の用例があることは興味深い事実である。しかも、この類聚歌林の編纂にかかわったとみられる山上憶良に「追和」の初出例がある。とすれば・・・

しかし、ここで「追和」とあるのは『文苑英華』に収録されたところの同詩であり、『藝文類聚』のそれには「和」とあるのみである。そして『文苑英華』は太平興国7年(982年)から雍熙4年(987年)のもの。万葉人の目に入るわけがない。しかも中尾健一郎氏の言によれば「『文苑英華』所収の梁元帝詩には、『以下三篇並見江州石本』(以下三篇、並びに江州の石本に見ゆ)の注記があり、「和登百花亭懐荊楚詩」に収める元帝、朱超道、陰鰹の三者の詩は北宋以前の拓本に由来することがわかる。」ともあり、そのテキストの確実性には・・・疑問符をつけざるを得ない。

それでは・・・やはり、「追和」の二文字は・・・

まだまだ課題は課題のままのようである。